2010/09/17(金)

アルカディア・ホテル・ハイデルベルク(シュベッチンゲン)7:30→9:10リューデスハイム(つぐみ横丁、鷲の塔)→ライン下り(ボーゼン城、ブロムザー城、クロップ城、エーレンフェルス城、鼠の塔、ラインシュタイン城、ライヒェンシュタイン城、ゾーネック城、フェルステンベルク城、シュターレック城、プファルツ城、グーテンフェルス城、シェーンブルク城、ローレライ、猫城、ラインフェルス城)→サンクトゴア(昼食)→車窓から(マウス城、リーベンシュタイン城、シュテレンベルク城、マルクスブルク城、 ラーンエック城)→15:15ケルン(大聖堂他)→マリティム・ライン・マイン(ダルムシュタット)泊

今日はいよいよ今回の旅行のクライマックス「ライン下り」です。
ライン川は、スイス・アルプスに源流を発し、リヒテンシュタイン・オーストリア・ドイツ・フランス・オランダを経て北海に注ぐ1,320kmの大河です。
その中で、中流地方は自然景観や古城の織りなす眺めが素晴らしく、ライン川クルーズは、4月から10月まで、マインツとケルン間を運航しています。
但し、我々のツアーは、リューデスハイムで乗船しザンクト・ゴアまでの約2時間のクルーズです。一般的なツアーのほとんどが、やはりこの区間なようであり、また、実際にも、この間が最も見どころが多く、古城も密集し、確認できただけでも「18」もの古城がありました。

【リューデスハイム】
バスは乗船場のあるリューデスハイムへ到着・・・。
リューデスハイムは古代ローマ時代からのワインの産地で、ドイツの白ワインのメッカともいわれます。
(つぐみ横丁)
そして、まずはリューデスハイム観光の定番「つぐみ横丁」散策です。つぐみ横丁は、全長わずか150mほどの通りに、狭い小路の両側にワイン酒場やレストラン、土産物店などが軒を連ねています。本当は夜がお薦めなのだそうですが、昼間でも結構楽しく散策できます。
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また、ドイツでも有名なワイナリーが並んでいて、お土産として買えるほかワインの試飲もすることができ、日本語での案内プレートまであったりします。
(ワイナリーでワイン試飲)
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(日本語での試飲案内プレート)
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【鷲の塔】
その後、ライン川クルーズ出発まで、少しですがフリータイムが与えられたので、街の乗船場の方へ向かうと、東の方に見張り台のような塔が見えます。
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そこで、ライン川沿いの道を歩き建物まで到着すると、プレートにドイツ語と英語でそれぞれ「Adlerturm」「Eagle Tower」とあり、「south-east part of the town fortification 2nd half of tha 15th century」の説明がついています。日本語に直訳すると「鷲の搭」で、「15世紀後半の街の要塞の南東の塔」となるでしょうか。
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また、その右の銅板には「adler Brunnen」とあります。日本語に直訳すると「鷲の井戸」となりますが、 水が出ていて水飲み場か何かだったのでしょうか?もしくは馬の水飲み場?? 「鷲のマーク」がありましたが、これはドイツの伝統的なマークですね。
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あとで調べると、15世紀に建てられた町の防衛施設の一部(監視搭)で、以前はもっと川に近いところに建っていたようです。ゴシック様式のこの塔の高さは20.55mで、内部の直径は5mあり、4階建てのその下は地下牢になっていたそうです。
そして、19世紀には宿泊所になっていたそうで、リューデスハイムに滞在したゲーテも何度もここに泊まり、 ここから臨むラインの姿に感銘を受けたそうです。
ちなみにこの塔、現在はN銀行の所有になっており、館内では、町の防備に関する資料と発展の歴史を見ることが出来るそうです。

【ライン川クルーズ(ライン下り)】 
リューデスハイムで、絵地図や写真付きのライン川クルーズの小冊子購入しました。ライン下りは、川の両側に、次々と城跡が見えてきますが、この小冊子があったお蔭で、非常に分かりやすくて重宝しました。
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鷲の塔を見た後、集合時間が近づいてきたので、乗船場へ向かうと既に凄い数の乗船客が並んでいました。
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乗船するとすぐリューデスハイムの町はずれとなり、小高い丘の南斜面一帯が広いブドウ畑となっています。そして、遠く斜面の上の方には、ニーダーヴァルト記念碑( Niederwalddenkmal)が見えてきます。
ニーダーヴァルト記念碑( Niederwalddenkmal) は、1883年、普仏戦争(1880-81)後のドイツ帝国発足を記念して建設されたもので、高さ37.6m(土台25.8m、ゲルマニア像11.8m)あり、ライン川との高低差が225mあるそうです。
(葡萄畑と丘の上にニーダーヴァルト記念碑)
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(ニーダーヴァルト記念碑をズームアップ)
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ブロムザー城ボーゼン城
そして、その葡萄畑の丘の麓にはブロムザー城、その右奥にはボーゼン城の塔が見えてきます。
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ブロムザー城
ブロムザー城は、古代ローマ時代の基礎の上に、11~14世紀に建てられたそうですが、当時はライン川の水位が今より高く、水の中にあったそうです。12世紀には、マインツ大司教もここで過ごしました。 1808年には非宗教化され、リューデスハイムの騎士に引き継がれ、1941年には市の所有となり、1950年から 「ワイン博物館(Weinmuseum)」 として公開されています。
ボーゼン城
ボーゼン城は、現在では高さ38mの塔だけしか残っていませんが、かつては、30m×33mの四角な城郭で、幅9mの濠で囲まれていたそうです。
現在はワイン業者の個人所有となっており、観光はできないようです。

ライン川クルーズは、眺めているだけでもワクワクし、写真を撮るのに甲板上を右へ左へ大忙しです(^-^)。
家内達は、甲板上が寒いので、途中から一階へ降りてスウェーデン人の乗客とお茶を楽しんでいたようです。確かに、お茶をしながら、両岸の景色を楽しみたかったとも思いますがね。
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しかし私にはこれだけの古城の宝庫を見逃すわけにはいきません。往復してくれると、両方楽しめていいんですけどネ(笑)。

【ビンゲン】
さて、リューデスハイムを出た船は、対岸のビンゲンの港へ向かいます。ビンゲンは起源をローマ時代とする町で、現在は郡庁所在地です。
丘の上に、ロッフス礼拝所の尖った建物が見え、港が近づくとローマ時代の要塞クロップ城が見えてきます。
(ロッフス礼拝所)
ロッフス礼拝所 

クロップ城
クロップ城

(ビンゲン港)
ビンゲン港

クロップ城は、1689年に破壊されるまで、マインツ大司教に従属する城主の館で、その後、1713年に、マインツ軍自らが城を爆破しました。
1855年に監視搭と門が再建され、1875~79年の工事終了後には城全体が蘇り、1897年以降、町役場として機能しています。
監視搭の土台は、ローマ時代に築かれたもので、現在は郷土博物館になっているそうです。

ネズミの塔エーレンフェルス城
ビンゲンの港を出てしばらくすると、中洲にクリーム色の「ネズミの搭」が見え、その右奥のブドウ畑の丘にエーレンフェルス城の廃墟が見えてきます。
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ネズミの塔
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「ネズミの搭」は、13世紀にマインツ大司教の命で、見張り及び税関(通行税)搭として建てられ、14世紀に増築されたと推定されます。
重税で農民や通行人を苦しめたマインツ大司教が、ここでネズミに食い殺されたという伝説にその名が由来するという。 その後、1689年にフランス軍によって焼かれましたが、1855年に新ゴシック様式で再建され、1974年までライン船舶交通の信号塔として使われていたそうです。

エーレンフェルス城
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「エーレンフェルス城」は、1211年、マインツ大司教により築かれた。この地は、ビンゲンと共に、ライン片岩山地流域における大司教の拠点となっていました。
税関所として使われていましたが、1356年には、大司教の滞在居城として増築され、同時に暴動市民から身を守る城でもありました。
また、15世紀の社会不安の時代には、大聖堂の宝物もここに移されたという。
正方形の土台構造を持ち、山側は約5mの防壁で守られ、その下層部は13世紀に、上層部は14世紀に構築されました。
1689年にフランス軍により破壊されましたた。
往時は、威風堂々とした城であったそうですが、現在は廃虚と化して、老朽化がひどく内部見学はできないそうです。
しかし、船上から見上げる限り、そのまま放っておくのが勿体ないような古城の風情を感じるのは私だけでしょうか?


尚、ここから暫くは、右岸には城跡がなく、逆に、左岸には次から次へと見事な城跡が現われます。


ラインシュタイン城ライヒェンシュタイン城
まず、左前方の岩壁の上にラインシュタイン城が見え、さらにその前方にライヒェンシュタイン城が見えてきます。
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ラインシュタイン城
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ラインシュタイン城は、ライン川から約90mの高さの岸壁に建てられ、船上から見上げる姿がいいです。
ラインの谷で最も美しい城の一つとされ、「ラインの宝石」とも称されているそうです。
ラインシュタイン城は10世紀頃に築かれたと思われますが、築城者と築城年代等詳細についてはよく分かっていないそうです。
ハプスブルク家出身のルドルフ1世が、当城を拠点として、ライン騎士(盗賊騎士)群を討伐したといいいます。その後、マインツ大司教の税関所として使われましたが、17世紀頃には意味を失い、ついには風化の一途を辿りました。
1823年、プロイセンのフリードリッヒ王子が廃墟を買い受け、再建工事をし、「ラインシュタイン城」と改名し、夏の別荘としました。
現在は、元オペラ歌手のヘルマン・ヘッヒャーが所有し、1976年に結成された「ラインシュタイン城愛好者振興協会」と共に、城の内装や敷地内の修復に尽くし、かつての栄華溢れる姿を取り戻しました。
そして、古城博物館として、一般開放されています。また、 テラス付きの小さなレストランで食事もできるそうです。

ライヒェンシュタイン城
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ラインシュタイン城に続いて現われるのがライヒェンシュタイン城です。
名前は似ていますが、その城の存在は正反対です(笑)。盗賊騎士退治の基地として使われたラインシュタイン城に対して、ライヒェンシュタイン城は、盗賊騎士の根城となった城です。
このライヒェンシュタイン城、今は古城ホテルや博物館になっているそうで、その堂々たる姿形といい、少し赤みがかっているものの古色蒼然とした城壁の色合いといい、実にかっこいいです。
ライヒェンシュタイン城は、11世紀にコルネリ修道院大聖堂(アーヘン近郊)の所有物守護の目的で建てられたようです。
しかし、13世紀には、城代が盗賊騎士として暗躍するようになったため、1254年にライン都市同盟によって破壊されました。
さらに、その跡がまた武装強盗団の巣窟と化したため、1282年には、ハプスブルク家の皇帝ルドルフ1世がこれを一掃しました。
その後、1344年にマインツ大司教へと引き継がれ再建されましたが、その200年後には再び廃墟と化しました。
その後、1834年に、フランツ・ヴィルヘルム、フォン・バルフース将官が買い受け、一時「ファルケンブルク」と改名し、門の丸屋根構造部を住居に改築しました。
1899年、ニコラウス キルシュ・ブリチェリ男爵が買い取り、建築士シュトレーベルに新ゴシック様式による大々的な再建を委託しました。
現在は、歴史主義的生活文化の他、価値ある芸術作品が展示され、私有コレクション(武器、狩猟トロフィー、鉱物等)やゆったりとしたレストランもあるそうです。

ゾーネック城
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リューデスハイムから乗船して30分ほどでライヒェンシュタイン城の下を通過すると、前方にゾーネック城(ゾーンエック城)が見えてきます。
ゾーネック城は、11世紀にライヒェンシュタイン城の守護城として、コルネリ修道院第聖堂の執事によって建てられました。
しかし、13世紀初頭にはゾーンネック城もライヒェンシュタイン城と同様、盗賊の根城となっていたようで、1253年にはライン都市同盟によって、更に1282年にはハプスブルク家の皇帝ルドルフ1世によって破壊されました。
1350年頃にマインツ選帝領のために再建されましたが、1689年のフランス軍による攻撃で廃墟と化したようです。
1825年に、後にプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世となる当時の皇太子が買い受け、1834年に狩猟城として再建されました。
第一次世界大戦後の1918年には国有化され、現在も行政の管理下にあり、博物館として帝国時代やビーダーマイヤー期の調度品、ライン風景画、武器などが展示されています。
尚、城内の居酒屋もお薦めだそうです(*^_^*)。
ゾーネック城は、ライヒェンシュタイン城の守護城として築かれたといいますが、ライヒェンシュタイン城の北西2kmほどの山腹の険しい岩壁の上に建てられており、守護城というよりも詰の城といった感じがします。
いずれにしても、ライヒェンシュタイン城と同様、『盗賊の城』という小説に出てくるような歴史を持ち、想像を掻き立てますね!?

ハイムブルク城
(ニーダーライムバッハの町並み)
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ゾーネック城の下から、5分程すると、左側にきれいなニーダーライムバッハの町が見えてきます。そして、そのちょっとした高台部分の木々の上に城の監視搭らしき建物が見えます。
日本で調べてきた本には載っていませんが、多分、城址だろうと、慌てて写真を・・・(汗)。 船が近づいて、改めて城であることを確認(^-^)。
現地で買ったライン川絵地図で確認したら「Burg Heimburg(ハイムブルク城)、別名Burg Hahneck(ホーネック城)」でした。
ハイムブルク城
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13世紀に「厳格ルートヴィッヒ」宮中伯が自分の領地であるバッハラハから南方へ勢力拡大を企て、ブファルツ領を獲得するために、ライヒェンシュタイン城とゾーネック城を買収して、再建を目指しました。
これに対してマインツ大司教はホーエンエック城(後にハイムブルク城と改名)を構築しました。城は1305年に完成し、その後、1340年まで城の改築が断続的に行われましたが、16世紀以降は、風化されて荒れたままでした。
19世紀後半にスティネス家の所有となり、一部が改築されました。
現在は個人所有の物で、所有者自身が住んでいるそうです。
ハイムブルク城はライン河畔にほど近い、それほど高くない丘に建ち、ニーダーライムバッハの町の中にすっかり溶け込んでおり、うっかり見逃すところでした(苦笑)。何しろ、ルートヴィッヒ宮中伯の南下に対抗して築いた城にしては、現在の状況を見る限りでは、とても防御能力が高いとは思えないのです。
尤も、すぐ下にある教会とのコラボはなかなかいいですがね(*^_^*)。
ハイムブルク城とニーダーライムバッハの教会)
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フュルステンベルク城
ニーダーライムバッハのハイムブルク城の下から、前方(北)を眺めるとブドウ畑の山の中腹にフュルステンベルク城が見えます。
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フュルステンベルク城は、1219年、バッハラハ周辺の司教区所轄物を守るためにケルンの大司教によって建てられました。
その後、1410年には、プファルツ選帝領地に帰属することになり、1620年にはスペイン軍、更に1632年にはスウェーデン軍が攻略し占領しました。
プファルツ継承戦争中(1688~90)、城はフランス軍の攻撃によって壊滅し、その後は廃墟と化したままになり、個人の所有物となっているそうですが、その肌色っぽくて明るい色は、元々の彩色を示唆する漆喰壁の跡がそうさせるのか、とても廃墟には見えないし、私好みの城址です(^-^)。とはいえ、廃墟にしておくのは勿体ないですよねえ。
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城の周囲のブドウ畑と背後の山並み、麓のきれいな町並み、ラインの流れとそこを行き交う船・・・。ゆったりと時間が流れるようなこれらの光景は、時間さえあればいつまでも眺めていたいくらいです。
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尚、ラインシュタイン城から、このフュルステンブルク城までは、左岸だけで20分ほどの間に5つの城が次から次へと現われ、嬉しいやら、忙しいやら・・・(^-^)。

 ノリッヒ城
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久し振りに、右岸に城跡が見えて来ました。ライン川から比高差150mはあろうかという、かなり高い山の頂上部に聳えるノリッヒ城です。ロルヒ町の防衛手段として1300年頃に堅固な木骨構造の搭として建てられたのが始まりだそうです。
ロルヒの町の防衛のための城ということですが、立地からすると最後に逃げてくる詰城のような感じです。
はるか高い所にあることもあり、船上から見る限り、その外観は古城というよりも、ただの箱型の建物の「廃墟」といった感じで、 ややもすれば見逃して通り過ぎてしまいそうです。現地で購入したライン川の地図のも、やはり名前もBurg(城)でなく、わざわざBurgruine(ruineは廃墟) となっています。

シュターレック城
ノリッヒ城の下から、4~5分ほどすると、左岸の山上に見事な古城が現われます。そして、その麓に搭がニョキニョキと建つ町が現われる。町の名前はバッハラッハ、城はシュターレック城です。
(シュターレック城とバッハラッハの町)
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船はバッハラッハの港に立ち寄ります。バッハラッハは小さいながら、中世の趣きが残る小ぎれいで人気のある町のようで、港は多くの乗降客で一杯です。私も、いつかは降りたって廻ってみたいものですね。
(バッハラッハ港)
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シュターレック城は、ライン川クルーズで、リューデスハイムから乗船して、ここまで多くの古城を見てきた中では、規模は兎も角、外観は最も豪壮です。特に、円柱形の監視搭のとんがり屋根をはじめとする黒い屋根が印象的です!

シュターレック城
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シュターレック城(シュタールエック城)は、11世紀もしくは12世紀初頭、ケルン大司教によって築かれたと考えられています。当時バッハラハ周辺はケルン大司教領でした。
その後、さまざまな経過を辿り、三十年戦争最中の1620年以降、シュターレック城とバッハラッハの町は、スペイン、スウェーデン、神聖ローマ帝国、バイエルン、スペイン、フランスと次々と占領され、著しく荒廃しました。
そして、プファルツ継承戦争の際の1689年には、フランス軍によって城は爆破され、塔や城壁が吹き飛んだという。
1925年から27年にかけてその古城は元どおりにそっくり修復され、城の一部をユースホステルとして発足させ現在に至り、今ではドイツで最も美しいユースホステルと言われています。


プファルツ城グーテンフェルス城
バッハラッハ港を出て間もなく、ライン川の中洲(岩礁と言った方が正確かも)に軍船のような姿をしたプファルツ城が現れ、その右岸のカウブの町の背後の山の頂上付近にはグーテンフェルス城が見えてきます。
プファルツ城グーテンフェルス城
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プファルツ城
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14世紀初頭、バイエルン王ルートヴィヒ4世は、ライン川を通過する船に対して、カウプの町とグーテンフェルス城(カウブ城)で、ライン川を通過する船に通行税を課していましたが、より厳しく通行税を取り立てるために、カウプの町の目の前の中洲にプファルツ城を造成しました。
1866年の普墺戦争以後は、ライン川での徴税の必要もなくなり、1960年代までライン川航行の船のための信号塔として利用されました。
プファルツ城の中核は5角形で6層の大塔、そのまわりには船のような形をした外郭があり、狭間や石落としを備えた木造りの防御施設があります。レンガ色と漆喰で塗りこめられた白い城壁の高さは12mあるといい、黒い屋根との色の対比がユニークです。
尚、この辺りは相当な急流で、船の形をしているのは単なるデザインではなく、水害氷害対策ということです。ライン川が異常に増水して、さらに激流になったときでも、流木などで城壁が突き崩されないようにするためだそうです。
プファルツ城は、こんな激流のど真ん中にありますが、現在、内部は博物館となり、カウプの町から約30分おきに渡し船が出ていて、5分ほどで中州に渡れ見学ができるそうです。

グーテンフェルス城
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一方、グーテンフェルス城は、カウプの町の背後の山の見るからに峻険な岩壁の上に築かれ、セットで通行税を取り立てていたというプファルツ城とは対照的に、「無骨」という言葉がピッタリで、見るからに頑丈そうな城壁です。
グーテンフェルス城は、13世紀初頭(1200年頃)、神聖ローマ帝国の委託を受けたファルケンシュタイン・ミュンヒェンベルク一族の参事官によってライン川通行課税を徴収するために築かれました。
1277年には、バイエルン公兼プファルツ伯(ライン宮中伯)のルートヴィヒ2世に売却され、ルートヴィヒ2世の子ルートヴィヒ4世がカウプの眼の前の中洲にプファルツ城を築いて、通行税の取り立ての強化をしました。
バイエルン・プファルツ継承戦争時の1504年、グーテンフェルス城はヴィルヘルム・フォン・ヘッセンの軍に39日間にわたって包囲されましたが、撃退しました。
1793年、フランス占領軍に降伏して間もなく、1806年にナポレオンによって城は廃されましたが、以後、いろいろな経過を辿り、1888年には、ケルンの建築家グスタフ・ヴァルターの手に移り、1889年から92年にかけて再建されました。
グーテンフェルス城は、外郭を含めると、ライン河谷でも屈指の大規模な城であり、本丸部分だけが再建され、現在は古城ホテルとして利用されているそうです。


シェーンブルク城とオーバーヴェーゼル】
グーテンフェルス城の下から3分ほどすると、今度は左岸前方の山の上に城が、その麓にオーバーヴェーゼルの町が見えてきます。
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シェーンブルク城
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(ズームアップ)
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城の名は、ずばり『シェーンブルク=美しい城』というだけあって、船上から見上げてもその美しさが一際目立ちます。
リューデスハイムからザンクトゴアの間にある数多くの古城の中でも最も美しい城だと思います。
今では、ライン川沿いに数多くある古城ホテルの中でも一番人気のホテルだそうです。他の古城ホテルの客室がたいてい新築された建物の中に設けられているのに対し、当ホテルは22ある全客室が本来の城の中にあるというから驚きです。
シェーンブルク城は、10世紀にザクセン家の皇帝によって築かれましたが、その時既に「シェーンブルク(Schönburg)=美しい城」という名を持っていたといいます。
1166年にシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)から、戦功によってこの城と周辺の領地を与えられた家臣がシェーンブルク家を名乗るようになり、ライン川を通る船から徴収する関銭や、領内で豊富に産するワインという財源に加えて、結婚と相続の関係でもシェーンブルク家はいろいろな所で新たに領地を獲得し、それらの財源を基に城を次第に増強し、ライン川でも屈指の壮大堅固な城に仕立て上げました。
1689年にはフランス軍がこの城を攻撃しましたが、あまりにも堅固で、ついに途中で諦めて引き返したといいます。
1885年、この半ば壊された城を買い取ったニューヨークの銀行家J.J.オークリー.ラインランダーが1920年までに一部再建を行いました。
1950年にオーバーヴェーゼル市がラインランダーの息子から城を買い戻し、工事を続行しました。
1957年からはヒュットゥル家がホテルとして改装し、現在も同家が営業を続けています。
(オーバーベーゼル)
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麓のオーバーヴェーゼルの町は、搭とワインの町と知られます。
ライン河谷で中世城壁が最もよく残っており、13世紀に築かれた18の搭を持つ(往時は21あったという)という城壁や搭が、船上からも見えます。


【ローレライ】
リューデスハイムで乗船して約1時間30分。右岸に高さ130m強の岩山が突出しているのが見えてくると、船内のスピーカーから歌が流れてきます。かの有名な「ローレライ」です。
すると、甲板に座っていた人が一斉に立ち歌いだします。勿論、それぞれの国の言語で・・・。
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この有名な「ローレライ」ですが、ただの岩山で「世界三大がっかり名所」と言われるのも納得です(笑)。
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ところで、壁面には白い字で落書きがいっぱい書かれていましたが、どのようにして書いたんでしょうねえ?
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ローレライは非常に硬い岩の山塊で、ライン川をこれを侵食しきれずに、急に方向を変え、川幅は110mあまりに押し狭められて、激流をなしています。今では爆破され除去されてしまいましたが、昔は水中に岩礁がいっぱいあって、大変な難所であったそうです。そこで、船頭達は経験とカンを頼りに激流の中を船を進めたのですが、夕日がローレライの岩を赤く染める頃は、川面にも夕日がきらめいて船頭の目測を誤らせ、岩礁に乗り上げて難破することが多かったのだそうです。
このことから、崖の上から美しい歌声で船乗りを惑わし、船を転覆させるという伝説が生まれたそうです。


カッツ城とザンクト・ゴアスハウゼン】
ローレライを過ぎて、真っ先に見えてくるのが右岸の崖の上の「カッツ城」と山麓の「ザンクト・ゴアスハウゼン」の町並みです。
カッツ城&ザンクト・ゴアスハウゼンの町並み)
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カッツ城は、ライン川クルーズで、ここまで見てきた城と較べると、船と城との距離が割り合い近く、崖の真上に聳える城の迫力が感じられます。見るからに要害堅固な城といった感じですが、ここもナポレオン軍に爆破されたといいます。ライン川沿いの城にとってフランス軍はまさに疫病神ですネ(苦笑)。
カッツェネルンボーゲン家は、ラインフェルス城を築いてから約100年後の1371年、対岸の山上にもう一つ城を築いて「ノイカッツェネルンボーゲン城(Burg Neukatzenelnbogen)」と名付けました。しかし、この名は長ったらしくて面倒なので、世人は前後を省略して「カッツ城(Burg Katz)」と呼ぶようになりました。
猫を意味する「カッツェ(Katze)」に通じるので、言いやすく、覚えやすく、人は「猫城」と呼びました。
最初、カッツェネルンボーゲン家は左岸のザンクト・ゴア側にしか領地を持っていませんでしたが、後に対岸にも領地を手に入れ、それを守り通すためにカッツ城を築き、さらにはラインフェルス城カッツ城とが互いに呼応することにより、領地の守りはさらに固くなり、関銭の徴収もさらに確実にしました。
その後、17世紀初期には、ケルン選帝公爵の所有物となりました。
さらには1806年、カッツ城ラインフェルス城と同様、フランスのナポレオン軍に爆破されました。
1896~98年には、枢密参事官兼部長のベルクが本来の姿に修復しました。
その後、カッツ城は連邦福祉団体の休暇施設等々、いろいろな目的に使われましたが、現在は日本人企業家が所有しています。
(岩壁の上に聳えるカッツ城をスームアップ)
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尚、城下町のザンクト・ゴアスハウゼンは、もともとは「ハウゼン」という名の小さな漁村でしたが、後に聖ゴアを町の守護聖人として仰ぐようになり、町の名を「聖ゴアさまのハウゼン」つまり「ザンクト・ゴアスハウゼン(St.Goarshausen)と改めました。そのことにより、ライン川を挟んで似たような名の町が位置するようになりました。
また、14世紀にはザンクト・ゴアスハウゼンの町は城壁で囲まれていました。現在では、城壁は取り壊されましたが、搭が2つだけ残っています。

【ザンクト・ゴアで下船】
一方、左岸前方にはザンクト・ゴアの町とその背後の山の上にはラインフェルス城が見えてきます。
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我々は、そのザンクト・ゴア港で下船ですが、大半のお客さんも下船するようです。
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【ラインフェルス城】
下船して桟橋から右手の方角を見上げると、やはりラインフェルス城がよく見えます。
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さらには、ザンクト・ゴアの町から城を見上げると、すぐ近くに見えます。今回の、我々のツアーでは予定に入っておらず、登城できないのが残念です。
(ザンクト・ゴアの町からラインフェルス城を見上げる)
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以前(2006/05/27)に家内が訪れた際のツアーでは、このラインフェルス城にあるレストランで食事をしたそうな。羨ましい限りです。
【2006/05/27に登城した際の家内の写真から】
この時の家内のブログには以下の通り記されている。
『昼食は古城レストラン「ラインシュロス」。直ぐ上に見えているのにずうっと迂回路を上って行く。この道筋の美しいこと、ヨーロッパの田園はどこも?のどかに美しい。ドイツは暗いイメージがあったが、五月も終わりのこの頃はやっぱり最高に美しい季節なのだろう。古城レストランは実に上手に遺構を利用していて見事に美しく明るく豊かな雰囲気を演出していて、如何にも居心地のよい空間になっていた。入ってみると「こんな不便なところにどこから?」と思うほど沢山の人が食事に来ていた。私たちは室内だったが、ライン川の上に張り出すような城壁の上のテラスで食事している人々が羨ましかったなぁ・・・。昼食はグリーンサラダ・鱒の蒸し物クリームソース・パン・ビスタチオのアイスクリーム・コーヒーに「白ワインの名産地!」よ。昼食の後ほんの少しの城跡散歩の時間が有って、使われていない城址の方を歩いてきたが、思っていた以上に大きな遺構だった。そしてその崩れた城壁の趣が川を背景に魅力的だった。』

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(ラインフェルス城のテラスから見下ろすライン川の眺望)
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【ザンクト・ゴアで昼食】
さて、ザンクト・ゴアでまずは昼食です。
昼食は魚料理でしたが、先日、今回の旅行の主催会社から誕生日プレゼントに頂いた「ワイングラス」で、ドイツらしく白ワインを一杯。
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ザンクト・ゴアの町は観光客が多いこともあり、土産物屋さんも多いようで、楽しく廻れそうですが、我々のツアーは、昼食後は早々にバスでケルンへ向かいます(;>_<;)
(ザンクト・ゴアの町)
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【ザンクト・ゴア~ケルンのバスの窓から】
我々を乗せたバスはザンクト・ゴアからライン川の左岸の道を一路ケルンに向かって進みます。
マウス城
すると、バスに乗ってすぐ、右手にライン川右岸の山上にマウス城(Burg Maus)が見えてきます。船と較べると、かなりスピードがあるのでじっくりと眺めることは出来ず、写真に収めるのがやっとです(;´▽`A``。おまけに、この国では、窓がよほど汚れない限り拭かないらしく、写真も汚れが目立ちます(苦笑)。
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マウス城は、1356年、トリーアの大司教がライン川沿いの領地防衛のために築いた城で、本来の名称は「トゥルンブルク城(Burg Thurnberg)」ですが、 すぐ隣の大勢力を持つカッツェネルンボーゲン伯爵のカッツ城(猫城、Burg Katz)  に見据えられて立ちすくんでいるネズミみたいだというわけで「ねずみ城」というあだ名が付けられ、定着してしまったそうです。
しかし、この城、当時としては進歩的構造の城で、最新の防衛設備を備えていたようです。
ところが、この城も、1806年にナポレオン軍に爆破されて廃墟と化したという。
1900年にケルンの建築士ゲルトナーが買い受け、1906年にかけて再建しました。
現在は、個人所有となり、鷲や隼の飼育場となり、夏季期間は、教習講演と同時に、鳥を飛ばす実演が開催されるとのことです。

リーベンシュタイン城シュテレンベルク城
マウス城の下を通り過ぎて、しばらくするとライン川右岸の山上に2対の城が見えてきます。右手前がリーベンシュタイン城で、 左奥がシュテレンベルク城です。
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アウトバーンではないのに、ドイツのバスは結構スピードを出すため、じっくり見るどころか、写真に撮るのがやっとです(汗)。やっとリーベンシュタイン城のズームアップした写真が撮れたと思ったら、道端に立っていた旗が邪魔を・・・ (>_<) /。
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さて、この2つの城は、2人の兄弟が一人の美しい姫をめぐって戦い、ボルンホーフェンの教会で互いに殴り殺したなどといった「敵対する兄弟 (Feindlichen Bruder)の城」という伝説があるそうです。その伝説のきっかけとなったという、2つ城の間に建つ城壁、通称「喧嘩の壁(Streitmauer)」)」も下からも見えます。
尤も、それは、本来は単なる二枚の盾壁としてシュテレンベルク城に建てられたものです。第一、 シュテレンベルク城は11世紀には既に築かれており、一方のリーベンシュタイン城は13世紀に建てられたものと思われることからも、 違うことは一目瞭然です。
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2つの城は戦闘状態に陥ったことはないどころか、両城はペアを組む事で優れた防御体制を誇っており、 互いに援護する関係にあったようです(^-^)。
第一、敵対関係には、あまりにも近すぎて、お互い困ってしまうでしょう(笑)。
尚、現在、城はホテルやレストランとして利用されているそうです。


マルクスブルク城
シュテレンベルク城の下から10分ほどすると、道の正面に教会が見え、その上にマルクスブルク城(Marksburg)が聳えているのが見えてきます。ただ、教会の塔がなんとも邪魔です(汗)
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マルクスブルク城は、ライン河谷に数多くある城の中で、唯一、一度も敵に攻略されたことがなく、中世そのままの造りを伝えているという。
マルクスブルク城は、エップンシュタイン家により、1100年頃に築かれたと云われ、1283年にカッツェネルンボーゲン家が相続し、増築を重ねて、難攻不落の城塞に仕立て上げました。
同家が、1497年に断絶したあと、ヘッセン方伯家がラインフェルス城カッツ城とともに、この城も獲得し、さらに外郭に堅固な堡塁を付け加えました。
そして、度々戦争があったにも関わらず、この城だけは無傷で残りました。
1803年、ナポレオンは、この城をヘッセン方伯から取り上げ、自分と友好関係にあったナッサウ侯家に与えたため、ナポレオン軍による爆破も逃れました。
1866年にはプロイセンが所有することとなり、1900年に皇帝ヴィルヘルム2世が、ドイツ城郭保持連盟に移譲し、ドイツ城郭協会が所有して保存と修復に努めるとともに、現在は一般公開をしているそうです。 
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ここまで見てきたライン川沿いの数多い古城の中には、いつか登城したいと思わせる城が幾つもありましたが、このマルクスブルク城はその中でも筆頭です。


ラーンエック城
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マルクスブルク城の下を通り過ぎて5分ほどすると、突然、ライン川右岸にラーンエック城が見えてきます。
ただ、僅か1~2分で見えなくなってしまうので、余程注意をして目を凝らしていないと見逃してしまいそうです。おまけに、 住宅等で見え隠れする上、道端には何本も電線が張り巡らされているため、シャッターチャンスはほんの一瞬だけです。
私も、シャッターを押したのが僅か3回、そして勿論、ろくな写真が撮れませんでした(>_<) /。
僅かな間の対面?でしたが、見る限りは何の変哲も無い城といった感じでした。
しかし、実際には中世の防衛設備等々、結構見応えのある古城で、 博物館もそれなりに充実しているそうです。
ラーンエック城は、1244年にマインツ大司教によって建てられました。
その後、ドイツ全土を巻き込んだ30年戦争(1618~48)の最中の1633年、城はスウェーデン軍の攻撃を受けて破壊され、その後、廃墟と化してしまいました。
しかし、19世紀中期から再建運動がおき、1936~1938年には、城の改修工事が行なわれました。
現在は、レストランを併設し、城博物館として公開されているそうです。

尚、コブレンツの街までには、ライン川の左岸の崖の上にもシュトルツェンフェルス城があります。写真で見ると黄色い城壁が印象的な大きな規模の綺麗な城です。 道路の左側真上に建っているため、バスの窓からは見れなかったのが残念でした(>_<)/。

コブレンツからは、ライン川沿いから離れた道路(アウトバーン?)を行くことになり、両側共に城を全く見掛けませんでした。

【ケルン大聖堂】
コブレンツから1時間20分ほどでケルン中心部が近づいて、前方に巨大なケルン大聖堂の2本の塔が見えてきます。
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ケルンといえば、何と言っても「ケルン大聖堂」です。というわけで、まずは「ケルン大聖堂」見学ですが、その前に、大聖堂前の広場で全体像を写真に撮ろうとするのですが、そのあまりの巨大さのためなかなか写真に収まりきらず四苦八苦です( ̄ー ̄;。それもそのはずです。大聖堂北塔と南塔の2つの塔は高さ157mもある上、奥行き144m、幅86mもあるのです。
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外見だけでも圧倒されるケルン大聖堂ですが、内部に入ると、またまた高さ43.5mの身廓の広さにビックリ仰天ですw(*゚o゚*)w。
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また、バイエルン王ルードヴィヒ1世から寄贈されたという「バイエルン窓」等々の美しいステンドグラスをはじめ、シュテファン・ロホナーの代表作の祭壇画「大聖堂の絵」とその右上の柱に飾られている像「ミラノのマドンナ」、さらにはきらびやかな金細工が施された黄金の箱(東方三博士の聖遺物箱)など多くの見所があります。
(バイエルンの窓)
バイエルン王ルードヴィヒ1世から寄贈されたものなので「バイエルン窓」と呼ばれています。 1846年~1848年にミュンヘンの職人によって作られたステンドグラスです。
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(シュテファン・ロホナーの代表作の祭壇画「大聖堂の絵」)
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(ミラノのマドンナ像)
1164年に東方三博士の聖遺物がイタリアのミラノから運ばれてきた時このマドンナ像もミラノから一緒に持ってきたそうです。
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(東方三博士の聖遺物箱)
東方の三博士とは、新約聖書に登場し、イエスの誕生時にやってきてこれを拝んだとされる人物で、聖遺物とは東方の三博士の頭蓋骨のことで、聖箱の中に王冠をかぶった三人の賢者の頭蓋骨が納められています。神聖ローマ皇帝フリードリッヒ・バルバロッサ(赤髭王)がイタリア遠征の際、ミラノから1164年に持ち帰ったといわれています。この聖遺物こそがケルン大聖堂の要であり、このために多額の寄付が集まり、巨大な大聖堂が建設され、信仰と芸術の中心地として発展を遂げていきました。
また、13世紀に設計されたこの黄金の棺は1000の宝石と真珠、そして300以上の準宝石とカメオで飾られており、現存する中世金細工の最高峰だと言われています。
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尚、現在のケルン大聖堂は3代目です。初代のケルン大聖堂が4世紀に完成し、その後2代目が9世紀に完成しましたが、火災に見舞われたため、3代目の建築が1248年に始まりました。しかし、宗教改革による財政困難のためしばらく工事が中断しました。1842年に建築が再開し、建築期間632年の時を経て1880年についに3代目ケルン大聖堂が完成しました。

ケルン大聖堂は南塔を高さ109mにある展望台まで登ることができます。但し、エレベーターはないので螺旋階段を自力で登ることになります。
螺旋階段が終わると、鉄製の階段になりますが、外が(下も)透けて見えるので、高所恐怖症の人は大変なようでした。 そして、大きな鐘を通過し、533段の階段の終点は、金網で囲まれた絶景が眺められる展望台に到着します。
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結構多くの人がへばっていましたが、こういう時に、ふだんから山城に登っているのが役に立ちます。私にとっては、大したことはなかったです。
展望台も外になり、それが余計に高さを感じさせるせいか、ケルンの町並みがさらに綺麗に見えるような!?
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ケルン大聖堂見学後は、今夜の宿泊先のダルムシュタットへ・・・。
明日は、フランクフルト市内散策後帰国の途へつきます。

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