龍渓山 久松寺 洞雲院(りゅうけいざん きゅうしょうじ とううんいん)
徳川家康の生母・於大の方が再嫁した久松松平家の菩提所
洞雲院本堂(大悲殿)
元々は天台宗寺院とはいえ、今は曹洞宗のはずだが、何故かご朱印に「弘法大師」と書かれている!?

正式名称
龍渓山 久松寺 洞雲院(りゅうけいざん きゅうしょうじ とううんいん)
所在地
愛知県知多郡阿久比町大字卯坂字英比67番地、電話0569-48-0544
宗派
曹洞宗
山号
龍渓山(りゅうけいざん)
本尊
如意輪観世音菩薩
開基
在室泰存大和尚
札所等
知多四国八十八か所霊場第15番札所
尾張三十三観音6番
愛知梅花観音30番
拝観
境内自由
歴史等
寺伝によれば、平安時代、天暦2年(948)に菅原道真公の孫である菅原雅規〈まさのり〉が開基となり、天台宗の久松寺
(洞雲院の前身)を創建したと言われている。
雅規の幼名は久松麿と言い、後に英比丸、英比殿とも称された。英比殿は天性朴質、極めて聡明、仁恵に厚く善政を敷いた。没後、
いつの頃からか人々はその徳を追慕し、英比殿夫妻の木像を彫刻し、厨子に奉安して英比荘の民家1戸1日の割で廻送し、供養を怠らなかった。
世に「廻り地頭信仰〈まわりじとうしんこう〉」と言われた。
この民俗信仰は明治維新とともに途絶え、現在、木像と厨子は、当山霊廟に安置され、学問上達信仰として祭られている。
室町時代、明應3年(1494)雅規の後裔、久松定益が曹洞宗の洞雲院として再建し、七堂伽藍と四つの塔頭を整備した。
開山には加木屋普済寺在室岱存〈たいぞん〉大和尚を迎えた。
天文16年(1547)久松俊勝のもとに徳川家康の生母於大の方が再嫁された。阿久比城
(坂部城)に在城の15年間に三男四女の計7人の子女を出生。俊勝の子は松平姓に改められ、後に桑名城主、
松山城主をはじめ多くの大名、
旗本として世に出した。
当山の境内墓地には、英比殿をはじめ於大の方等13基の墓がある。また、
例年3月16日には於大の方が女性の幸福招来を願って始まった観音懺法会〈かんのんせんぽうえ〉、通称「おせんぼ」が行われる。
『現地説明板より』
現況・感想等
久松松平氏発祥の阿久比城へ登城した時に見つけて訪れた。
洞雲院は、阿久比城の築城者でもある久松定益が再建した寺院で、
定益をはじめとして、家康の生母・於大の方やその夫俊勝などの墓がある。
寺域は、特別に広くはないものの、境内には、大悲殿(本堂)、弘法大師堂、大日堂、鐘楼、庫裡などが揃ったなかなかの寺院だ。
本堂前の石畳の両側には、「南無大師編照金剛」の、幟が風にはためいていた。また、本堂脇に於大の方の像があり、「おせんぼ」
についての説明が記されている。
この寺院、元々は天台宗寺院とはいえ、今は曹洞宗のはずだが、何故かご朱印に「弘法大師」と書かれている!?
(2008/11/10訪れて)
ギャラリー
山門と石碑
小さいながらも朱色の山門が印象的だ。山門下の石碑には、札所のほかに「徳川家康公生母於大の方菩提所」
と刻まれている。

本堂(大悲殿)
傳通院殿於大の方像
本堂脇に於大の方の像があり、その下に「おせんぼ」の説明が記されている。要約すると、『天文16年
(1547)、久松俊勝のもとに再嫁した於大の方は、悲運を背負っていたので信仰が厚く、常に洞雲院に参詣した。
陰暦の2月15日涅槃会をぼくして営まれる「観音懺法会」、通称「おせんぼ」は於大の方が「戦国の女の哀しみが2度と起きないように」と、
この洞雲院で祈願したのが始まりと言われ、戦乱の世を生きる女性の幸福将来と我が子の幸福を思う母の願いがこめられ、
現在も毎年3月16日に営まれる。』とある。
久松松平家葬地
手前右奥から左手前へと、久松定益、久松定義、久松俊勝、於大の方、松平定綱の墓。久松定益は、
阿久比城の築城者で、洞雲院も建立。久松定義は、定益の子。久松俊勝は、お大の方が再嫁した夫で、永禄4年(1561)
に岡崎城に城代として入城した。松平定綱は、お大の方と俊勝の間に生れた定勝の二男で、第3代桑名藩主となった。
