観心寺(かんしんじ)
楠木正成ゆかりの寺院
金堂

所在地
大阪府河内長野市寺元475
宗派
高野山真言宗
山号
檜尾山(ひのおざん)
本尊
如意輪観音(国宝)
開基
実恵(じちえ)
札所等
新西国三十三箇所客番
仏塔古寺十八尊 第13番
関西花の寺二十五霊場25番
役行者霊蹟札所
神仏霊場巡拝の道 第56番
文化財等
【国宝】
金堂、木造如意輪観音坐像、観心寺縁起資材帳
【重要文化財】
建掛塔、鎮守堂(訶梨帝母天堂)、本坊書院、金銅観音菩薩二体、金銅釈迦如来、金銅如意輪観音菩薩、木彫不動明王、木彫愛染明王二体、
木彫地蔵菩薩、鉄灯籠、観心寺縁起二巻、観心寺文書、楠木家文書他多数
拝観
【拝観時間】 9:00~17:00
【拝観料金】 大人300円、小中学生100円
写真撮影日
2007/11/18
歴史等
伝承では、大宝元年(701)、役小角(えんのおづぬ、役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。その後、
平安時代初めの大同3年(808)に空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残るが、
北斗七星を祀る寺は日本では観心寺が唯一である。
弘仁6年(815)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたというが、
この話は伝承の域を出ない。
観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、
その弟子真紹とともに天長4年(827)より 造営工事に着手した。以後、国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・
京都の中宿として発展した。
後醍醐天皇は当寺を厚く信任し、建武新政後(1334年頃)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出し、現在の金堂ができた。正成は、
建武の中興の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばの延元元年(1336)、湊川の戦で討ち死にしたため、建築が中断され、
そのままになっているという。正成が討死後、正成の首級が 当寺に送り届けられ、首塚として祀られている。
また正平14年(1359)からしばらくの間、後村上天皇の行在所のあったことでも知られている。
室町時代以降は、管領畠山氏や豊臣氏の庇護を受けて栄えたが、足利、織田、徳川にはそれぞれ圧迫を受け、
最盛期50余坊あった塔頭も現在わずか2坊になっているが、境内は 史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している。
『「パンフレット」、「フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)」他より』
現況・感想等
観心寺は、大阪府とはいえ、かなり山深い処にある楠木正成ゆかりの寺院である。
同じく、近くにある楠正成ゆかりの千早城や赤坂城
(上赤坂城・
下赤坂城)
では、ほとんど人を見かけないのに対して、観心寺は多くの参詣人で賑わっていた。
山門脇には楠木正成像が立っている。境内へ入っていくと、南北朝時代に建てられたという立派な金堂が見える。
大阪府下では最古の国宝建築物だそうだが、昭和59年(1984)に解体修理がなされたとのことでで、見た目には新しく綺麗だ。
境内隅の方には楠木正成の首塚があり五輪搭が建てられている。
また、紅葉の名所としても有名なようで、まだ時期的に早かったが、少し色付きはじめた木々があちこちに見えた。
(2007/11/18訪れて)
ギャラリー
金堂(国宝)と少し色づきはじめた紅葉
金堂は大阪府下最古の国宝建造物であり、七間四方、単層入母屋造、和様、禅宗様、
大仏様の折衷様式の代表的な遺構である。 室町時代初期に建立され、豊臣秀頼の時、江戸時代の中期、明治の初め、
昭和の初め等々たびたび修理し、昭和59年に昭和大修理の落慶をみた。 本尊は如意輪観音で脇侍は不動明王、愛染明王、
内陣に板製の両界曼茶羅がある。
建掛搭(重要文化財)
建掛塔(たてかけのとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、
未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の中興の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、
造営なかばで湊川の戦で討ち死にしたため、建築が中断され、未完のまま現在に伝わるという。
開山堂(本願堂)
楠木正成首塚
