栂尾 高山寺 (とがのお こうざんじ)
「高雄山 神護寺」、「槙尾山 西明寺」とともに三尾の名刹として知られる紅葉の名所
高山寺の紅葉

正式名称
栂尾山高山寺
所在地
京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
宗派
真言宗系単立
山号
栂尾山
本尊
釈迦如来
開基
1.伝・光仁天皇(勅願)
2.明恵
文化財
【国宝】 石水院、鳥獣人物戯画ほか
【重要文化財】 乾漆薬師如来坐像、宝篋印塔、絹本著色華厳海会諸聖衆曼荼羅図ほか
【史跡】 境内が国の史跡に指定
拝観
【拝観時間】 8:30~17:00
【拝観料金】 石水院拝観料600円、 紅葉時期のみ入山料500円
写真撮影日
1995/11/19
1995/08/06
歴史等
高山寺のある栂尾(とがのお)は、古代より山岳修行の適地として小寺院が営まれていたようで、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があった。
高山寺(こうざんじ)は、宝亀5年(774)、光仁天皇の勅願によって華厳宗寺院として開創され神願寺都賀尾坊と称したとの伝えもあるが、当時の実態は明らかではない。
その後、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていたが、弘仁5年(814)には度賀尾十無尽院に改称した。また、平安時代初期には天台宗の寺院となり、度賀尾寺(とがのおじ)と改称されたといわれている。その後、一時荒廃したようであるが、平安時代末期には文覚によって再興されたという。
高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵(みょうえ)である。
明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入った。明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、菩提心や戒律を重視する華厳宗の復興に努めた。明恵は建永元年(1206)、後鳥羽上皇から華厳宗復興の道場として栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。
高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。
昭和41年(1966)、仁和寺当局による双ヶ丘売却に抗議し、真言宗御室派から離脱し、真言宗系単立寺院となった。
『「ウィキペディア」、「高山寺公式ホームページ」ほか参照』
現況・訪問記・感想等
高山寺といえば、子供の頃には教科書に載っていた「鳥獣人物戯画」、今では、永六輔作の 「♪京都、栂尾、高山寺♪」の歌を思い起こす(子供の頃の方が高尚?)。「とがのお こうざんじ~」の響きが良い(*^_^*)。
とは言いながら、高山寺は、京都市内とはいえ、市街地からは離れている上、紅葉の季節は非常に混雑するので、京都在住の三年間にも一度しか訪れたことがない。それも、交通渋滞と駐車場確保のために、早朝に出掛けたので、あまり陽も射さず、折角の紅葉ももう一つだった。尤も、その年(1995年)の京都の紅葉は、他もあまり良くなかった記憶があるが・・・。
「鳥獣人物戯画」も、何故か、北山通り(京都府立植物園の隣)の「陶板名画の庭」にある陶板画の方が印象が強い( ̄ー ̄;。
ギャラリー
金堂
現存の「金堂」は寛永11年(1634年)に仁和寺から移し復興されたものといわれており、本尊の釈迦如来像が安置されている。私には、平凡な造りのように見えるし、その規模も決して大きいものではない。 
石水院 廂(ひさし)の間
「石水院」は明恵上人が後鳥羽上皇から賜った学問所とされており、建てられたのは13世紀前半といわれているが、寛永14年(1637年)に改造されているという。落板敷の中央に、今は小さな善財童子(ぜんざいどうじ)像が置かれている。 


【「京都府立陶板名画の庭」の「陶板画」】
本来は高山寺の「鳥獣人物戯画」であるが、何故か、北山通り(京都府立植物園の隣)の「陶板名画の庭」にある陶板画の方が印象が強い( ̄ー ̄;。
(鳥獣人物戯画 伝鳥羽僧正)
甲巻60cm x 2262cm、乙巻60cm x 2400cm(縦横原寸の2倍) 
(最後の審判 - ミケランジェロ バチカン -)
システィナ礼拝堂 - 1430cm x 1309cm(ほぼ原寸)。1990年当時の状態を再現。

(最後の晩餐 – レオナルド・ダ・ヴィンチ)
イタリア - ミラノ - サンタ・マリア・デル・グラツィエ修道院 - 432cm x 886cm(ほぼ原寸) 
