大徳寺(だいとくじ)

臨済宗大徳寺派本山、一休宗純による復興や千利休切腹の因となる山門でも有名

千利休の切腹の因となった大徳寺山門
IMG_7960 大徳寺ご朱印

所在地

京都市北区紫野大徳寺町53

正式名称

龍寶山 大徳禅寺

宗派

臨済宗大徳寺派

山号

龍寶山

本尊

釈迦如来

開基

宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)

文化財

方丈、唐門、絹本墨画淡彩観音猿鶴図ほか(国宝)
勅使門、三門、仏殿、法堂、木造大燈国師坐像ほか(重要文化財)

搭頭

徳禅寺、養徳院、龍源院、黄梅院、大慈院、瑞峯院、興臨院、正受院、三玄院、真珠庵、大仙院、芳春院、龍泉庵、如意庵、聚光院、総見院、龍翔寺、高桐院、玉林院、龍光院、大光院、孤篷庵、松源院

概要

京都東山で修行を続けていた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)は、正和4年(1315)(元応元年・1319年とも)、同郷の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源とされる。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325)、大徳寺を祈願所とする院宣を発している。寺院としての形態が整うのはこの頃からと思われる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発した。
しかし、建武の新政が終わって足利氏が天下を取ると、後醍醐天皇と関係の深い大徳寺は足利氏から軽んぜられ、五山十刹から除かれてしまった。
至徳3年(1386)には、五山十刹の最下位に近い、十刹の第9位とされている。このため大徳寺は、政府の庇護と統制下にあり世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心する独自の道をとった。
その後の大徳寺は、貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う人びとが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
享徳2年(1453)の火災と応仁の乱(1467~77)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力をえて復興したことや、千利休が山門楼上に自らの像を置いたがために秀吉から切腹を命じられたことは有名な話である。
近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けた。江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持である名僧、沢庵宗彭が紫衣事件と呼ばれる流罪の圧迫を受けたが、幕府との関係ものちに回復し、今日に至っている。

現況・感想等

大徳寺は、京都市内にある寺院の中でも最も好きな寺院の一つで、京都在住時代に我が家から近いこともありよく出掛けたものだ。
境内には22もの塔頭がある。大仙院・高桐院・龍源院・瑞峯院は常時拝観できるが、他の塔頭は春と秋の一時期に一部公開された時にのみ拝観できる。
いずれの搭頭も、建物は勿論のこと、枯山水などの庭園が素晴らしい。

ギャラリー

勅使門(唐門)
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【龍源院】
大徳寺の中でも最も古い寺で、文亀2年(1502)に能登領主畠山義元、周防領主大内義興、九州の都総督大友義長(宗麟の祖父)の三氏が創建した。
(方丈前石庭)
  

(方丈室中襖絵「龍の図」)

【黄梅院】
黄梅院は、永禄5年(1562)、織田信長が初めて入洛した際に父・信秀の追善菩提のために羽柴秀吉に命じて建立した。天正10年(1582)の本能寺の変で信長が急逝すると秀吉は主君の塔所としては規模が小さすぎるという理由で信長の法名・総見院殿の名を採り、別に総見院を建立した。その後、天正14年(1586)に秀吉により本堂・唐門が、天正17年(1589)に鐘楼・客殿・庫裏などが小早川隆景により改修され黄梅院と改められた。
(秋の特別公開)
黄梅院は、普段は非公開であるが、毎年11月上旬に特別公開がある。黄梅院の御朱印は、住職自らが各人毎に説法をしながら達筆な文字で歌を書いてくれることでも有名だ。その見開きサイズ御朱印は、1千円と高価ではあるが、何とも嬉しく思い出深い(^^)
   

㊧直中庭、㊨山門から入った右手にある石柱
㊧直中庭は、千利休が62歳の時に造られた苔一面の枯山水庭園で、豊臣秀吉の希望による瓢箪を象った池を手前に配し、加藤清正が持ち帰った朝鮮灯籠が据えられている。
㊨黄梅院には蒲生氏郷の墓などがり、山門から入ってすぎ右手に「蒲生氏卿公墓地」「小早川隆景卿墓所」「河春寺殿・毛利元就公・家一門霊所」の石柱が立っている。最近、「萬松院殿・織田信秀公・霊所」の石柱が増えたようだ。

【總見院】
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で49歳の生涯を閉じた織田信長の菩提寺である。本能寺の変より100日後の10月11日、大徳寺に於いて秀吉により7日間にわたる信長の大葬礼が執り行われた。その翌年の天正11年、信長の一周忌に間に合うようにと秀吉が建立したのが總見院である。
(摠見院山門と鐘楼)
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(信長の墓)

【興臨院】
大永年中(1520年代)、能登の畠山義総によって建立され、以後畠山家の菩提寺となっている。当院の本堂は、創建直後に焼失したため、現本堂は天文2年(1533)頃のものである。畠山家没落後、天正9年(1581)、前田利家により本堂屋根の修復が行なわれ、以後前田家の菩提寺となった。
(方丈前庭)

【高桐院】
高桐院は細川幽斎(藤孝)の長子忠興により慶長6年(1601)に建立された。開祖玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)は幽斎の弟である。忠興は82歳の高齢で卒去、遺言により遺骨は高桐院に埋葬された。
IMG_7913 62高桐院111123

(参道と紅葉)
大徳寺の中でも、私が最も好きなのが高桐院だ。秋の紅葉時に、高桐院の玄関へ続く長い石畳の参道に紅葉(落ち葉)が敷き詰められた景観は本当に素晴らしく、何度も足を踏み入れたにも関わらず、何故かその写真がほとんどない。 
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(楓の庭)
通称「楓の庭」と呼ばれる庭は、簡素ながら趣きがあり、一面の苔地の中に一基の灯籠が据えられている。私は、紅葉の季節に限らず、この庭が何とも好きだ。
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㊧忠興とガラシャ夫人の灯篭墓石、㊨袈裟型おりつくばい
高桐院は、庭園や紅葉以外にも、茶室や細川家の墓等々見どころが多い。
㊧この石灯籠は千利休が愛用した灯籠であったが、秀吉が欲しがったため、灯籠に一角を壊して召し上げられるのを逃れたといわれる灯籠。利休が切腹の前に遺品として三斎に贈ったものと伝えられている。忠興とガラシャ夫人の墓塔となっており、忠興が生前こよなく愛し、自ら墓標に指定したといわれる。
㊨加藤清正が朝鮮王城の羅生門礎石を持ち帰り三斎へ贈ったもの。つくばいは、地表低く納められているためこう呼ばれているとされている。三斎はこの蹲踞を熊本から江戸への参勤交代の時にも持ち歩いたという。だけど、運ばされた家来は大変だよネ!?
 

茶室 松向軒
寛永5年(1628)、細川忠興により建立された。秀吉の催した「北野大茶会」で用いたものを移築したといわれている。「茶室に珍しい黒壁は、瞑想の場の感があって、簡素な中にも幽玄の雅味をたたえた名席である」と高く評価されている。右は天井を見上げたものであるが、こちらも趣向が凝らされている。
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【大仙院】
永正6年(1509)、大徳寺76世住職古岳宗亘(こがくそうこう)によって創建された。現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、北派本庵として最も尊重重視される名刹である。大仙院の3世古径和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれ賀茂の河原で梟首された千利休の首を山内に持ち帰り手厚く葬った。また漬け物の「たくあん」を考案したとされる7世沢庵和尚が宮本武蔵に剣道の極意を教えた所としても有名である。また、大仙院の枯山水庭園は、室町時代の代表的な庭園である。
(枯山水庭園)
㊧方丈北奥枯山水蓬莱山より流れ落ちた滝が川となり二手に分かれ,ここ前庭で合流故にこの砂紋は海の波を表すという。
㊨舳先を立て大河を進む宝船を表わす。教科書等でもお馴染みの庭であるが、思ったよりも狭い空間である。

【瑞峯院】
天文4年(1535)、キリシタン大名として知られる大友宗麟が帰依した徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)を開祖に迎え、自らの菩提寺として創建した。瑞峯院という寺号は宗麟の法名「瑞峯院殿瑞峯宗麟居士」から名付けられたものである。
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㊧独坐庭、㊨閑眠庭(十字架の庭)

【芳春院】
慶長13年(1608)に玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を開祖として前田利家の夫人・松子(まつ、芳春院)が建立。法号をとって芳春院と名付け、前田家の菩提寺とした。開創期には多くの公家、武家、茶人等が集まり、寛永文化の発信地ともなった。寛政8年(1796)の火災により創建当時の建物が焼失するが、2年後に現在も残る客殿・庫裡・呑湖閣などが再建された。
通常は公開されていないが、春と秋に特別公開される。
㊧山門を入ってすぐの庭、㊨呑湖閣
呑湖閣は、元和3年(1671)に前田利家の子・利長が小堀遠州に依頼して建てたものと伝えられる優美な二重楼閣で、金閣・銀閣・飛雲閣と並び京の四閣と称されている。

【孤篷庵】
大徳寺境内の西の端、寺域内でも少し離れた所にある。小堀遠州が竜光院内に創建した庵を、のちに松江藩主松平不昧公が再建。非公開(特別公開を行うときがある)

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