慈照寺(じしょうじ)

室町幕府8代将軍足利義政により築かれた東山文化を代表する寺院

裏山から見下ろす銀閣寺
 

正式名称

東山慈照寺(とうざんじしょうじ)

通称

銀閣寺

所在地

京都市左京区銀閣寺町2、電話075-771-5725

宗派

臨済宗相国寺派

山号

東山(とうざん、相国寺境外塔頭)

本尊

釈迦如来

開基

【開基(創立者)】 足利義政
【開山(勧請開山)】 夢窓疎石

文化財等

【国宝】 銀閣(観音殿)、東求堂
【重要文化財】 絹本著色春屋妙葩像
【特別名勝、特別史跡】 庭園
世界遺産

拝観

【拝観時間】 夏季(3/1-11/30)午前8:30 ~ 午後5:00、冬季(12/1-  2/末日)午前9: 00~ 午後4:30  年中無休
【拝観料金】 大人・高校生500円、小・中学生300円

概要

京都の東に連なる東山(ヒガシヤマ)は、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いている。この辺りは、平安時代には、 天皇の御陵や火葬場があり、菩提を供養する寺院が多く、浄土寺も平安時代中期に大文字山の麓に創建された。
室町時代に至り、第6代将軍義教の第3子義躬が浄土寺において出家し、義尋と号して門主となったが、後に兄義政に呼び戻され、 義視と称して将軍の後継者となった。
しかし、やがてこれがもとで応仁の乱が起こり、浄土寺は跡形もなく焼失してしまった。
8代将軍足利義政は、文明5年(1473)、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、かつて弟義視が住し、 戦乱で焼けたままになっていた浄土寺跡地を山荘造営地として選考し、文明14年(1482)から、東山山荘(東山殿)の造営を始め、 翌年常御所(ツネノゴショ)が完成すると、政務を嗣子義尚に譲り、義政はこの地に移った。応仁の乱が終わった直後で、 京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭や夫役を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた。
そして、長享3年(1489)3月には銀閣(観音殿)の立柱上棟が行われたが、その年の10月に義政は病に倒れ、翌延徳2年(1490) 年1月7日に銀閣の完成を見ることなくこの世を去った。
そして、同年2月、義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。
戦国時代末期の天文19年(1550)、三好長慶と15代将軍義昭との戦いが慈照寺の周辺で展開され、 堂宇は銀閣と東求堂とを残し悉く焼失し、室町幕府の衰退と共に慈照寺も荒廃していった。
江戸時代初期の慶長20年(1615)、宮城丹波守豊盛による大改修がなされ、現代に至っている。

感想等

京都在住時代、我が家から金閣寺と銀閣寺は、 ほぼ同じほどの距離にあったにも関わらず、金閣寺へは10回近く訪れているのに、 何故か銀閣寺へは3~4回しか訪れていない。しかも、その内、1回は夜の特別拝観だ。
そして、写真もほとんど撮っておらず、銀閣(観音殿)の写真さえちゃんとしたのがないことに気がついた(苦笑)。 
よく、好みとして、金閣寺派と銀閣寺派に分かれるというが、 別に、銀閣寺より金閣寺が好きだったわけではないが・ ・・? というよりも、どちらも、その魅力がよく分かっていなかった?(苦笑)
当時の私にとって、銀閣寺の魅力は、銀閣寺垣と銀沙灘と向月台だけだったかも?
ところで、ご朱印の文字が、何とも頼りなげで、如何にも義政の性格を表わしているようで面白い?(笑)(失礼)

ギャラリー

銀閣寺垣
銀閣寺垣と呼ばれる門から庭園を結ぶこの入り口の道の道は、独特の風情がある。

銀沙灘と向月台と銀閣
写真で見ると、まるで塩田のよう?な、この銀沙灘と向月台を見るだけで銀閣寺だと分かる独特のものだ。

漱蘚亭跡
上段の庭を苑路から望む。「漱蘚亭跡付近には崩れかかったような珍しい石組みが見られます」とあるが、 私にはただの崩れた岩にしか見えない(スミマセン)。今度、訪れた時には、じっくりと味わいます。

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