園城寺(おんじょうじ)
壬申の乱で没した大友皇子を弔うために建立、
比叡山宗徒との度々の抗争が
大門(仁王門) 重文
三井寺の正門にあたり、入母屋造の楼門で、もと近江の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった門を慶長6年’
1601)、徳川家康が寄進したもの。墨書銘等から室町時代の宝徳3年(1451)の建立と推定される。

正式名称
長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)
通称
三井寺(みいでら)
所在地
大津市園城寺町246、電話077-522-2238
宗派
天台寺門宗総本山
山号
長等山(ながらさん)
本尊
弥勒菩薩
開基
大友与多王
札所等
西国三十三箇所14番
西国薬師四十九霊場48番(別所・水観寺)
近江三十三観音5番
文化財
【国宝】
金堂、新羅善神堂、勧学院客殿、光浄院客殿、絹本著色不動明王像(黄不動)、木造智証大師坐像(中尊大師)、木造智証大師坐像(御骨大師)、
木造新羅明神坐像、五部心観2巻、智証大師関係文書典籍
【重要文化財】
大門(仁王門)、三重塔、鐘楼ほか多数
拝観
【拝観時間】 午前8時~午後5時 年中無休
【拝観料金】 大人500円、中高生300円、小学生200円
写真撮影日時
1995/10/14
1996/11/24
最終拝観日
1996/11/24
歴史等
667年、飛鳥から近江に都を移し、大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、
生前にはその志を果たせなかった。
天智天皇が没した翌年の672年、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承をめぐって壬申の乱が勃発し、
大友皇子は敗れ、25歳の若さで没した。
大友皇子の子である大友与多王は父の霊を弔うために、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。
壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。
勝利をおさめた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、大津京は僅か5年で廃都となった。
なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)
の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
貞観年間(859~877)になって、唐から帰国した留学僧円珍(智証大師・天台寺門宗宗祖)が、園城寺を天台別院として再興してからは、
東大寺・
興福寺・
延暦寺と共に
「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、南都北嶺の一翼を担ってきた。
円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦4年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入る。
この時から比叡山延暦寺を
「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称し天台宗は二分された。両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいるが、
比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは、
中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中世以降は源氏など武家の信仰も集め、鎌倉幕府に続き、室町幕府下でも保護を受けた。
文禄4年(1595)、豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられたが、慶長3年(1598)、
秀吉の死の直前になって再興を許可された。
秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、
ほぼこの頃に整えられたものである。
明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、昭和21年(1946)以降は天台寺門宗総本山となっている。
『「園城寺公式ホームページ」、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)」ほかより』
現況・感想等
三井寺について、当時(最終拝観日は1996/11/24)の私の乏しい知識と興味は、「近江八景の一つである三井の晩鐘」と
「50度にも及ぶという比叡山との抗争」だけだった(汗)。
その1つ「三井の晩鐘」は、300円を支払えば鐘を撞くことが出来る。当然、私も撞いたが、特別違った音色には思えなかった(苦笑)。
また2つ目の「比叡山・三井寺のいわゆる山門寺門の抗争」時に弁慶が比叡山まで引き摺っていったという「弁慶の引き摺り鐘」
が霊鐘堂に収められ、その傍には「弁慶の汁鍋」というでかい鍋が置かれているのが面白い。
勿論、三井寺の見どころは、それだけではなく、金堂や大門(仁王門)などの国宝や重要文化財の建築物も見応えがある。ただ、仏像の多くは、
秘仏となっており非公開であり、秘仏以外の仏像、仏画等も、多くは東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されている。
また、三井寺から見下ろす大津の市街地と琵琶湖の眺望は素晴らしい。そして、秋の紅葉も素晴らしい。
ギャラリー
総門
仁王門の南約200mに園城寺の総門がある。西国札所の観音堂に直接参拝するには、
この総門から境内に入る方が早い。
釈迦堂
大門を入って金堂に至る道の右側にある。天正年間(16世紀末)
造営の御所清涼殿を下賜され移築したものと伝える。

金堂へ
仁王門をくぐって直進すると金堂(左上)へ出る。この辺り、晩秋には紅葉がきれいだ。
金堂(国宝)
三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院(北政所)が慶長4年(1599)に再建した。入母屋造、
檜皮葺きの和様仏堂である。このカーブした屋根が何ともいえない!?

㊧鐘楼(重文)、㊨梵鐘(三井の晩鐘)
金堂の左手前にあり、「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る。この梵鐘は慶長7年(1602)の鋳造で、
平等院鐘、神護寺鐘とともに日本三名鐘に数えられている。300円を支払えば鐘を撞くことが出来る。当然、私も撞いたが、
特別違った音色には思えなかった(苦笑)。

㊧弁慶の引き摺り鐘(重文)、㊨弁慶の汁鍋
㊧金堂裏の霊鐘堂に「弁慶の引き摺り鐘」と称する梵鐘が置かれている。無銘だが、
奈良時代にさかのぼる日本でも有数の古鐘である。伝承では、俵藤太秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われ、
その後比叡山と三井寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、
弁慶が怒って谷底へ捨てたという。現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。歴史的には、この鐘は文永元年(1264)
の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。
㊨「弁慶の引き摺り鐘」のすぐ傍には「弁慶の汁鍋」なるものも置かれている。僧兵らが煮炊きに使っていた大鍋である。これがまたデカイ!
人の2、3人くらいは、ゆうに入れるほどで、まるで鉄風呂だ(笑)。石川五右衛門が茹で上げられた釜もこんなだったろうかと思わせる?

三重塔(重文)
鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、
慶長6年(1601)、徳川家康が再度移築させたもの。
毘沙門堂(重文)
観音堂の近くにある小堂で、元和2年(1616)の建立と伝える。
観音堂
寺域の南側、琵琶湖を望む高台に位置し、西国三十三箇所観音霊場の第14番札所として知られる。
観音堂は元禄2年(1689)に再建されたもの。手前は手水舎。
観月舞台(展望台から撮影)
嘉永3年(1849)の建立とされており、琵琶湖を眼前に見通すことのできる位置にある。
展望台からの眺望
展望台からは、眼下に大津市街地、その向こうには琵琶湖が拡がる素晴らしい眺望である。

紅葉
三井寺は、春の桜も、秋の紅葉も素晴らしい。
