高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)
空海が開基、衰亡の時期を経て大宗教都市に
金剛峯寺

所在地
和歌山県伊都郡高野町高野山132
宗派
高野山真言宗総本山
山号
高野山
本尊
阿閦如来
開基
空海(弘法大師)
中興
定誉(じょうよ)
札所等
真言宗十八本山18番
西国三十三箇所特別札所
神仏霊場 巡拝の道 第13番
文化財
不動堂、仏涅槃図ほか(国宝)
大門、絹本著色大日如来像ほか(重要文化財)
世界遺産
拝観
金剛峯寺 【拝観時間】午前8時30分~午後5時(受付は、閉所時間の30分前)
【拝観料金】一般:500円小学生:200円小学生以下無料
金堂 【拝観時間】午前8時30分~午後5時
【拝観料金】一般:200円
大塔 【拝観時間】午前8時30分~午後5時
【拝観料金】一般:200円
歴史等
高野山は、和歌山県北部、標高約800mの平坦地に位置する。100ヶ寺以上の寺院が密集する、
日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺とともに、
真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地である。
弘仁7年(816)、嵯峨天皇から高野山を賜った空海は、翌年から弟子たちに命じて伽藍の建立に取りかかった。空海の他界後、弟子・真然
(空海の甥でもある)が約20年をかけて根本大塔などの伽藍を整備した。
その後、京都の東寺との確執もあり、
正暦5年(994)には落雷による火災のため、ほとんどの建物を失い、僧はみな山を下りるという、衰亡の時期を迎えた。
荒廃した高野山は、長和5年(1016)頃から、祈親上人定誉(きしんしょうにんじょうよ)によって再興された。治安3年(1023)
には藤原道長が参詣。平安末期には白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え、
寺領も増加した。
源平の騒乱期には、高野山で出家する貴族や武士が目立つようになった。彼らは高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ。また、
北条政子が亡夫源頼朝のために建てた金剛三昧院のように、有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に2,
000もの堂舎が立ち並んだという。
戦国時代、武力をたくわえていた高野山は織田信長と対立するようになった。比叡山焼き討ちを行った信長は、高野山の僧をも大量に殺害し、
天正9年(1581)には高野攻めが行われるが、ほどなく信長自身が本能寺の変に斃れたため、高野山は難をまぬがれた。
続く豊臣秀吉も、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時高野山にいた武士出身の僧・
木食応其が仲介者となって秀吉に服従を誓った。のちに秀吉は応其に帰依するようになり、寺領を寄進し、また亡母の菩提のため、山内に青巌寺
(せいがんじ)を建てた。
近世に入ると、徳川家が高野山を菩提所と定めたこともあり、諸大名をはじめ多くの有力者が高野山に霊屋、墓碑、
供養塔などを建立するようになった。全長2kmにわたる高野山の奥の院の参道沿いには今も無数の石塔が立ち並び、
その中には著名人の墓碑や供養塔も多い。
明治元年に行政官から青巌寺を金剛峯寺へ改号し、さらには隣接していた興山寺と合併され、総本山金剛峯寺として現在に至っている。
『「フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia) 」、「パンフレット」ほかより』』
現況・感想等
小学校や中学校の社会科の時間に、「空海の高野山金剛峯寺」と「最澄の比叡山延暦寺」
の2つは必ず出てきて、中味はよく分からないものの誰もが名前だけは知っているお寺であろう。
比叡山は京都から近いこともあり、ちょくちょく行ったが、高野山は1997年8月31日が初めてだった。
まず驚いたのは、周囲を1,000m級の山々に囲まれた山奥で、しかも高野山の場所自体も約800mあるにも関わらず、
そこに広い平坦地があること。そして、そこに100以上ものお寺が密集しているという、まさに宗教都市が存在していることである。
さらに驚いたのは、奥の院の参道沿いに、武士・大名から文人、芸能人、近代経済界に至るまで、
著名人の無数の墓碑や供養塔が立ち並んでいることである。
その墓を見て廻って楽しいと言ったら、不躾かもしれないが、次から次へと現われる著名人の墓に興奮?してしまった。
ギャラリー
金剛峯寺庭園 蟠龍庭(ばんりゅうてい)
奥殿の前にあり、石庭として日本最大の石庭(2340㎡)である。 雲海の中で雌雄一対の龍が向かい合い、
奥殿を守っているように表現されている。 龍は四国産の青い花崗岩140個、雲海には京都の白川砂が使われている。
金剛峯寺襖絵
大広間の襖には群鶴の絵、松の絵が描かれ、狩野法眼元信(1476~1559)の筆と伝えられる。
金堂
昭和元年(1926)に焼失後、昭和7年(1932)に再建された鉄筋コンクリート造の建築で、
屋根は入母屋造である。本尊阿閦如来(あしゅくにょらい)像は高村光雲の作である。右後方は根本大搭。

㊧根本大搭、㊨荒川経蔵(六角経蔵)
㊧空海が高野山開創にあたり密教の根本を象徴する搭として建立されたものであるが、現在の根本大搭は、
昭和12年(1937)、空海入定1100年を記念して建てられたもので、鉄筋コンクリート造である。㊨六角経蔵は回転するらしい。
現在の建物は1933年の再建で、基壇の上の枠が回転するようになっており、
これを一回廻せば一切経を一回唱えたことと同じご利益があるといわれているそうだ。

㊧東搭、㊨西搭(国指定重要文化財)
東搭は、1984年の再建。西搭は、金剛界大日如来像と胎蔵界四仏を安置する。
初代塔は887年に建立であるが、現在の塔は5代目で天保5年(1834)の再建で、国指定重要文化財である。

奥の院 弘法大師廟所のご朱印
この右奥に弘法大師の廟がある。弘法大師は、承和2年(835)3月21日、現身のまま入定した。弟子達は、
定身を浄窟に奉納して廟を建立した。日夜灯明と香煙が絶えることはないという。ところで、このご朱印の文字、
弘法大師の眠る奥の院だけあって、さすがに素晴らしく上手い(^^)

奥の院参道の石塔や墓所
奥の院の参道沿いには、武士・大名から文人、芸能人、近代経済界に至るまで、
著名人の無数の墓碑や供養塔が立ち並んでいる。
㊧豊臣家墓所、㊨明智光秀墓所

㊧島津家初代家久、2代光久墓所、㊨武田信玄、勝頼墓所

