補陀洛山寺(ふだらくさんじ)
補陀洛渡海で有名な天台宗の寺院

所在地
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348
宗派
天台宗
山号
白華山
本尊
三貌十一面千手千眼観音
開基
伝・裸形上人
文化財等
【国重要文化財】木造千手観音立像
世界遺産
拝観
【拝観時間】 8:00~17:00
【拝観料】 無料(志納)
写真撮影日
1997/03/22
最終拝観日
1997/03/22
歴史等
補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。
補陀洛山寺は、仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代(特に、
平安時代から鎌倉時代)にかけて人々が、観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺である。
江戸時代まで那智七本願の一寺として大伽藍を有していたが、文化5年(1808)の台風により主要な堂塔は全て滅失した。
その後長らく仮本堂であったが、1990年に現在ある室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建された。
【補陀洛渡海】
補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされる。中世日本では、はるか南の海の果てに「補陀洛浄土」が存在すると信じられ、
30日分の灯火のための油と食料をたずさえて、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称した。
記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、
そのうち25件がこの補陀洛山寺から出発している。
船上に造られた屋形には扉が無い。屋形に人が入ると、中から出られないように、
出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されるためである。その屋形の四方に4つの鳥居が建っている。これは「発心門」「修行門」
「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表わしているとされる。
渡海船は伴船で沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。つまり、入水による入滅の行なのである。
『「フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)」、「熊野三山七つの謎・高野澄著(祥伝社黄金文庫刊」他より』
現況・感想等
宗教とは、一体何だろうと思ってしまう。当時は、本気で南海の果てに補陀洛世界の観音浄土があると信じていたのだろうか!?
そして、多くの人が補陀洛渡海をして死んでいったのだろう。何とも、薄気味悪い話であると同時に、宗教の恐ろしさを感じる。
さすがに、江戸時代に入ると、生者の渡海は行われなくなり、代わって、補陀洛山寺の住職が死亡した場合に、
あたかも生きているかのように扱って、かつての補陀落渡海の方法で水葬をする儀式に変っていったようだが・・・ホッ(^^)。
補陀洛山寺は、1990年に再建されたそうで、真新しいきれいなお寺だった。また1993年に、
復元された渡海船が南紀州新聞社長より寄贈され、境内の建物の中に展示されている。
また、貞観10年(868)の慶龍上人を第1号として、享保7年(1722)
の宥照上人まで補陀洛渡航を行なった25人の名前が刻まれた石碑があり、その中には、平重盛の長男維盛(平清盛の孫)の名前もある。
尚、話はそれるが、日光は昔、「フタラ」と呼ばれ、「二荒」と書いていたが、それを「ニッコウ」と音読みし、それから「日光」
の字が当てられたと伝えられているが、その「フタラ」とはこの「フダラク」から来ている。
(1997/03/22訪れて)
ギャラリー
復元された渡海船
船上に造られた屋形には扉が無い。屋形に人が入ると、中から出られないように、
出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されるためである。その屋形の四方に4つの鳥居が建っている。これは「発心門」「修行門」
「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表わしているとされる。
渡海船は伴船で沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。つまり、入水による入滅の行なのである。
