熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)

熊野三山の一つ、元は熊野川河口に鎮座する海の民の守り神か

 

別名

新宮

所在地

和歌山県新宮市新宮1

社格等

式内社(大)・官幣大社・別表神社

主祭神

熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)

札所等

神仏霊場巡拝の道第1番(和歌山第1番)

文化財等

【国宝】 
古神宝類、木造熊野速玉大神坐像・木造夫須美神坐像・木造家津御子大神坐像・木造国常立命坐像
【重要文化財】
木造伊邪那岐神坐像、木造伊邪那美神坐像、木造皇太神坐像、きゅう漆金銅装神輿(「きゅう」は「髟」に「休」)、きゅう漆金銅装神幸用船( 「きゅう」は「髟」に「休」)、太刀・銘正恒(附・糸巻太刀拵)
【史跡】
熊野参詣道、熊野三山
【天然記念物】
梛の大樹梛の大樹
世界遺産

参詣

境内自由
宝館入館500円(9~16時)

写真撮影日

1997/03/22

最終参詣日

1997/03/22

歴史等

熊野速玉大社は、熊野三山の一つで、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ) を主祭神とする。
熊野速玉大神は伊邪那岐神(いざなぎのみこと)とされ、熊野夫須美大神は伊邪那美神(いざなみのみこと)とされるが、 もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。 神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。
奈良時代から平安時代にかけては、熊野速玉神社は熊野本宮神社よりも上に見られていたようだ。第46代孝謙天皇の時代(749~758)に、 「日本第一大霊験所」の勅額が速玉神社に下賜され、熊野三山の中でも逸早く『熊野権現』の称号を賜った。また、 9世紀半ばから諸国の神々に朝廷から位階が授けられるようになったが、神階でも速玉神のほうが、熊野坐神(熊野本宮の主祭神) よりも上だった。両社に正一位が授けられて格差がなくなるのは、天慶3年(940)以降のことである。
一方、高野澄氏は「熊野三山七つの謎(祥伝社黄金文庫刊)」の中で、「熊野三山(本宮・新宮・那智)は同時に発足したわけではなく、 本宮では大斎原が、那智では那智の滝がそれぞれ信仰の核になった。そして、熊野川の河口が聖地として信仰の対象になったのが、熊野速玉大社 (新宮)の発祥であろう。本宮が熊野川上流にあるのに対し、新宮は河口にあることから、新宮は本宮に対する下位の聖地として発足し、別当家 (熊野三山の事務を統括する役職)の本拠が新宮に築かれた頃から、新宮も本宮に対する独自性を獲得し、 いわゆる熊野三山の時代に突入したのではなかろうか。」と述べている。

概要・現況・感想等

熊野といえば、「蟻の熊野詣で」である。
院政の時代、天皇が伊勢の神を信仰し奉仕するに対して、上皇は熊野三山の神を信仰し奉仕するのが宗教政策の基本であった。本来、 院政の目的は、天皇の地位を保護するところにあったので、上皇が伊勢の神を信仰し奉仕すると、「天皇と伊勢の神の唯一絶対性」 が曖昧なものになるためだそうだ。
熱狂的な熊野参詣の口火を切ったのは白河上皇である。(白河上皇より前に宇多上皇の御幸があるが、一度だけだったこともあり 「上皇=熊野御幸」とまではならなかった。)そして、白河上皇が9回、鳥羽上皇が21回、後白河上皇が34回、後鳥羽上皇が28回など、 200年の間に熊野御幸は98回を数えた。
白河上皇の熊野御幸がきっかけとなって、その後、武士から一般庶民に至るまで熊野参詣ブームが続き、 熊野街道には熊野三山を目指す参詣者の列が延々と続き、その様子を形容して「蟻の熊野詣で」といったのである。
熊野速玉大社には、宇多上皇に始まる23方140度の上皇など皇室による熊野御幸を記録した屏風型の記念碑が建てられている。
速玉大社は、朱色の鮮やかな建築もさることながら、新宮市の市街地にあるためか、本宮や那智と較べると明るい感じがするというか、 近代的な感じさえする?
厳粛で重厚な神社も良いが、私は、このような明るい感じの神社も悪くないと思うが、どうでしょうか?
(1997/03/22訪れて)

ギャラリー

大鳥居

神木「梛(なぎ)の大樹」
正面の鮮やかな大鳥居をくぐると、左手に樹齢1000年ほどと推測される梛(なぎ)の大樹が聳えている。 当神社の神木とされ、平重盛(清盛の嫡男)お手植えのナギとの伝承がある。幹周り6m、高さ20mで、 日本最大の梛(ナギ)の木として天然記念物に指定されている。ナギは凪に通じることから、家内安全のお守りとされ、また、 その葉は笠などにかざすことで魔除けとなり、帰りの道中を守護してくれるものと信じられ、 熊野詣の証に梛の小枝を折って持ち帰ったことが古書にも見える。藤原定家は 「千早振る 熊野の宮の なぎの葉を 実らぬ千代の ためしにぞ折る」の和歌を詠んでいる。

熊野御幸記念碑
境内には、 院政の時代、天皇が伊勢の神を信仰し奉仕するに対して、上皇は熊野三山の神を信仰し奉仕するのが宗教政策の基本であった。宇多上皇に始まる23方140度の上皇など皇室による熊野御幸を記録した屏風型の記念碑が建てられている。白河上皇が9回、 鳥羽上皇が21回、後白河上皇が34回、後鳥羽上皇が28回・・・・。それにしても凄い回数だ!ちなみに、天皇の場合は「行幸」というが、上皇などの場合は「御幸」 というそうだ。

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