2008年3月14日(金)

アイワルク→ペルガマ遺跡→ケチカレシ→セルチュク→エフェス遺跡→パムッカレ泊

アイワルクはエーゲ海に面したトルコ西部の港町で、沖合にギリシャ領のレスボス島があります。近隣には白い砂浜が広がり、海岸保養地として知られていますが、昨夜泊まったグランド・ホテル・テミゼルは海岸端にあったので、朝食後ちょっと散策に出掛けましたが、早朝のため、残念ながらまだキラキラと輝くエーゲ海のイメージとは違います。
エーゲ海海岸端にて

さて、本日の観光予定は「ベルガマ遺跡」と「エフェス遺跡」です。まずは「ベルガマ遺跡」へと向かいます。
今回のトルコ旅行訪問する史跡(トロイベルガマエフェスベルゲヒエラポリス等々)の中では、今日このあとで訪問するエフェスが最も遺構が良好に残っており、ベルガマ遺跡は、その次なのだそうです。しかし、私には昨日の訪問地トロイ遺跡でも充分感動したので、これから向かうベルガマのアクアポリスの遺構は、どれほど凄いのでしょうねえ(*^_^*)。


ベルガマ(ペルガモン)
(ベルガマ市街図)~現地購入誌より~
ベルガマ市街図 

ベルガマが近づき、山上にアクロポリスの城壁等が見えてくると、その姿に興奮し始めてきます。

(ベルガマ・アクロポリス遠景)
ベルガマ遺跡全景
そして、さらにその山上への螺旋状の道をバスが登り始め、至る所に石垣が見えて来ると、益々期待が高まって来ます♪♪♪。

ベルガマ(ペルガモン)の建国に関しては明らかではありませんが、神話によるとトロイ戦争当時にさかのぼります。トロイの滅亡炎上後、ヘクトールの妻アンドロマケはアカィア軍に捕らわれ、アキレウスの息子ネプトレムスと結婚し3人の子供を設けたといい、その一人ペルガモスが建設したペルガモンスが後にペルガモンに、さらにベルガマに変わったといいいます。
紀元前560年には、この西アナトリア一帯はリディア王国のクロイソスの支配下に入っていましたが、その後ペルシャの支配下に入れられました。
紀元前334年、マケドニアのアレクサンダー大王がアナトリアに遠征してきて、ペルシャのダリウス三世を打ち破り、西アナトリアはペルシャから解放されました。
紀元前323年にアレクサンダー大王が亡くなると、広大な領土は重臣たちによって分割され、南と西アナトリアはリシマコスが手にし、ペルガモンを軍事基地としました。
その後、リシマコスがシリアとの戦いで戦死すると、その部下であったフィレタイロスが跡を継ぎ、ペルガモン王朝を築きました。
フィレタイロスには男の子がなく、その後、王国は甥のエウメネス1世、そして息子アタロス1世、さらにはエウメネス2世、アタロス2世・3世と続き、大いに繁栄ましした(アタロス王朝)。この王朝はローマとともにシリアと戦い、小アジアにおける交易の権益を得、その富をバックにギリシャ文化を取り入れたアクアポリスの建設が次々と行われました。
しかしその後、アラブの攻撃を受け、19世紀には神殿をドイツに持ち去られ、ヘレニズム都市の面影は奪われていきました。

さて、我々のバスはヘルーン(王家の社)傍の駐車場に到着です。駐車場前に無造作に壺が置かれていました。 トロイの遺跡にもありましたが、穀物の保存などに使われたという底の尖った壺でしょう。左手奥にはヘルーンと呼ばれる王家の社が見えます。

(ベルガマ・アクロポリスの観光バス駐車場所からヘルーン方面を)
駐車場到着
ヘルーンは、アタロス1世(BC241~BC197)とエウメネス2世(BC197~BC159)の栄誉を記念して建設した社(やしろ)でした。ヘレニズム時代には英雄は死後も厚い尊敬を受けて神格化されてヘルーン(社)に祀られて信仰されたのだといいいます。ペルガモンのヘルーンは、中庭を小部屋が取り巻く形で、これらの小部屋は祭やその他の目的に使われました。
ヘルーン前から「アテネ神殿」「トラヤヌス神殿」「武器庫」の方の石垣群を見上げて感動し、トルコ人添乗員エルキンさんの話もそっちのけで、写真をパチパチ。それにしてもヘルーン辺りから見上げる石垣群は本当に見事です。

(ヘルーン手前からベルガマ・アクロポリスの石垣群を望む)
ヘルーンから城壁を

山上へと向かうと、まずアテナ神殿が・・・。この神殿は紀元前4世紀のもので、ペルガモンの神殿としては最古のものです。ヘレニズム芸術の最高傑作と言われる「瀕死のガリア人」など、見事な彫刻群が飾られていたそうです。

(アテナ神殿)
アテナ神殿跡の背後の最も高い所にトラヤヌス神殿の円柱跡等が見えます。
アテナ神殿1

アテナ神殿は、往時は6×10本のコリント式柱が並んでいましたが、今日では土台しか見ることが出来ません。
アテナ神殿2

アテナ神殿の南側、一段低くなったテラスに「ゼウスの大祭壇」があります。紀元前190年、ペルガモン王国の黄金時代を築いたエウメネス2世が宿敵ガラティア人との戦いの勝利を神に、特にゼウスとアテナに感謝して捧げた祭壇で、下市は勿論、西のセリヌスの谷からもよく見える位置に有り、ヘレニズム時代の最も重要な記念碑的建物でした。
尚、ゼウスの大祭壇ですが、1871年に、ドイツの鉄道技師カール・フーマンが発見し、祭壇の列柱回廊や素晴らしいレリーフ部分など全ての発掘品はベルリンへと運ばれて、西暦1930年にペルガモン博物館が建設され、そこに復元されています。
トルコ人ガイドのエルキンさんによると、現在、トルコ政府は「ベルガモンの遺跡」は「トルコの真っ青な空の下でこそ映える」といって、ドイツに返還要求をしているようです。するとドイツはベルガモン博物館にある遺跡の背景(壁)を真っ青にしたということです(笑)。
トルコには、他にも世界レベルの貴重な遺跡がたくさんありますが、その多くが十分な保護・管理がされていないようです。トルコ政府は、大昔に国外に流出した遺物を取り戻すことに血眼になるより、いま国内にある遺物の保護・管理にもっとエネルギーを注いだほうがいいような気もしますネ。

(ゼウスの大祭壇)
ゼウスの大祭壇

また、アテナ神殿の西側下の斜面には劇場跡がありますが、劇場跡の石段は勿論のこと、その向こうの赤い屋根が映えるベルガマの町並みと背後の山並みの景色は最高です。
ペルガモンでは、その長い歴史を通じて、3つの劇場が建設されましたが、最も重要なのがこのヘレニズム時代の劇場です。ローマ帝国時代に改修されていますが、扇形に上に向けて広がっており、収容人員は1万人であったそうです。下の方に設けられた貴賓席は大理石造りで、一般席は租面岩と安山岩で出来ています。音響が非常に良いように造られており、また、眺望を遮らないために、舞台は催物の時だけに組まれる木製のものだったといいます。

(ヘレニズム時代の劇場) ~クリックにて拡大画面に~
劇場

アテナ神殿跡からアクロポリスの丘を登って行くと、トラヤヌス神殿跡が現れます。
ローマ帝国時代、皇帝に神殿を捧げるのは選ばれた都市のみに与えられる大きな栄誉で、このネオコロス=皇帝神殿を建立した都市としての許可を得るため、帝国各地の大都市は凌ぎを削りました。このトラヤヌス神殿はローマ皇帝トラヤヌスの許しを得ましたが完成前にトラヤヌスが世を去り、後継者ハドリアヌスの理解を得て建設されました。
トラヤヌス神殿は周柱式建築で、コリント式柱が6×10本並び、3方を回廊が取巻いていたそうです。高い腰壁に乗った神殿は平野を見下ろしていましたが、アクロポリスのほとんどの建物は灰色やピンクがかった安山岩で出来ていたので、全てが「白大理石」のこの神殿は遠くから人目を引いたことでしょう。 
現在、この神殿はオリジナルに沿って修復作業が進められているとのことですが、私には、その気配は全く感じられませんでした。

(トラヤヌス神殿跡)
DSC07343

北側の柱の土台は他よりも5mも高く据えられています。
トラヤヌス神殿2

神殿の大理石の柱や礎石等々は素晴らしく、地下にも部屋等があるようでした。
トラヤヌス神殿3

トラヤヌス神殿4

(武器庫跡)
神殿の裏へ登って行くと、武器庫跡がありますが、石が散乱する姿がこれまたなかなか見応えがあります。ここには武器や武具だけでなく、食料なども蓄えられていたそうです。この建物が出来たのは紀元前2~3世紀で、古代世界最古の軍用倉庫といえるものだそうです。
武器庫跡

(貯水槽)
武器庫には大きな貯水槽が残っています。コインを投げて、真ん中にある石の上に上手く乗ったら願い事が叶うとのことで、私もやってみたら、一発で見事に乗りましたが、後で考えたら、願い事を考えずに投げていました(;>_<;)。
DSC07369

それにしても、ベルガマ遺跡は見応えたっぷりでした。


ところで話は変わりますが、これら遺跡はいずれも城塞でもあります。そこで、ついでといっては何ですが、エルキンさんの話によるとトルコには3万5千もの城塞が残っているそうですw(*゚o゚*)w。個人旅行で廻りたいものですね。


さて、次は今回の遺跡観光の最大の目玉「エフェス遺跡」へと向かいますが、2時間40分ほどすると右手山の上の方に如何にも城砦跡らしき姿が見えて来ました。
トルコ人添乗員のエルキンさんに尋ねると「ケチカレシ砦」だそうですが、比高差300m近くはあるでしょう。L字型の山脈の角の頂上にありますが、その山脈は「エフェス」の方へと続いています。
「エフェス」を防御するための出城のようなもののようですが、かなり規模も大きくてかっこよく、遠目に立派な石垣が見えます。
パックツアーなので当然登っていく訳にはいきません。また、今後も登る機会はないでしょうね!
【ケチカレシ砦】
ケチカレシ砦1

(砦をズームアップ)
ケチカレシ砦2

尚、このケチカレシ周辺は黒曜石の産地だそうで、至る所が掘り返されていました。

 

さて、ケチカレシから15分ほどのところに「セルチュク」という町があり、そこのレストランで昼食をとることに・・・。
トルコは世界三大料理の国なだけあって、飲み物もなかなか多彩です。
中でも「チャイ」というトルコ式のお茶は、トルコの何処へ行っても飲んでいるのをよく見掛けます。
一方、コーヒーやヨーグルトもトルコが発祥地とされ、「トルココーヒー」や塩ヨーグルト「アイラン」もあります。
フルーツ栽培も盛んで、フレッシュジュースも多く、中でもザクロジュース「ナル・スユ」が有名なようです。
また、トルコはイスラム教徒が国民の99%を占めますが、飲酒はほとんど自由に行われており、水で割ると白く濁ることで知られている酒「ラク」が有名です。また、ワインやビールも数多くの国産銘柄があり、ピルスナー・ビールの「エフェス」が有名です。
ただ、最近(2016年5月23日に訪れた時)は、どうもエルドアン大統領の独裁で宗教色が強くなり、変わってきているような気もします。というのは、宿泊したホテルや街中のいろんな店でアルコール類が手に入りませんでした。
というわけで、家内を始め一緒に行った人は塩ヨーグルト「アイラン」やザクロジュース「ナル・スユ」を飲んでましたが、なかなか評判は良かったみたいです。
(ザクロジュース「ナル・ユス」と塩ヨーグルト「アイラン」)
ザクロジュースと塩ヨーグルト 

勿論、私は「エフェスビール」と「ワイン」です。「ラク」も興味はあったのですがネ。尤も、帰国してからトルコ料理店で飲んでみましたが、決して美味いものではありませんでした。失礼( ̄ー ̄;。

昼食後、バスに乗りエフェスへと向かうと、すぐ近くの丘の上に城塞(セルチュク城)が見えました。わずか比高20~30mほどの丘で、20分もあれば登ってこれそうですが、残念ながら観光バスの旅で、当然、無理(;>_<;)。 尤も、あとで調べたら、現在、入城することはできないそうでしたがネ(*^_^*)。
【セルチュク城】
セルチュク城

事前準備ゼロの私は全く知らなかったのですが、「セルチュク」はエルサレムを追われたキリスト12使徒のひとりヨハネが聖母マリアとともにこの地を訪れ、晩年を過ごしたとされる町で、「聖ヨハネ教会」や「聖母マリアの家」等があり、今もキリスト教徒たちの巡礼が絶えないとのことです。尚、その「聖ヨハネ教会」も、このアヤソルクの丘にあるそうです。


エフェス
そして、次はいよいよ「エフェス」です。エフェスは、今回の訪問遺跡の中だけでなく、エーゲ海、地中海沿岸地域でも、最も良好に遺構が保存されているのだそうです。
セルチュクを出発してから1時間強ほどすると、車窓から水道橋のような遺構が見えてきました。すると間もなく、エフェス遺跡の南入口に到着しましたが、そこには真っ白な大理石の物凄い数の遺跡群と眩いばかりの真っ青な広~い空が広がっていました。

【エフェス遺跡市街図】 (現地購入誌より) ~画面をクリックにて拡大~ 
エフェス市街図

エフェスを最初に造ったのは定かではないが、知り得る限りでは、紀元前2000年にさかのぼり、地母神キベレ(のちのアルテミス)神殿近くに存在していたことが確認されています。
紀元前11世紀にはイオニア人により征服され、神殿から1.5kmの海岸沿いに新しい町が造られ、紀元前6世紀まで半独裁政治の形で統一され、同世紀の半ば頃まで暴君として支配していました。
その後、リディア王コレソスが町を支配するようになったが、コレソスがペルシアとの戦いに敗北すると、エフェスはほかのイオニア都市とともにペルシアの支配下に入りました。
紀元前334年のグラニコス戦争後、アレクサンダー大王がエフェスを攻略し、ペルシャ人から町を奪い返し、紀元前283年には大王の後継者の一人リシマコスが制服しました。リシマコスはピオン山とコレッソス山の間に新しいエフェスを建て、町を城壁で取り囲みました。エフェスはこの地方で最も裕福な町の一つとなり、貿易の中心地となり、競技場、体育場、劇場などが造られ、町はヘレニズム時代、ローマ時代までその繁栄は続きました。
しかし、リシマコスの死後、エフェスはエジプトとシリアの支配下に入り、紀元前190年にはローマ人によって攻略されました。
ローマ人はペルガモンを通じて長い間、間接的にエフェスを統治していましたが、その後エフェスは首都となり、「アジアのローマ州」の最も重要な商業の中心地となりました。現在残る遺跡のほとんどがこの時代のものである。
紀元後1世紀までエフェスはローマや隣国との関係をよく保っていましたが、紀元後17年の地震によってエフェスは完全に破壊されてしまいました。
その後ティベリウス大帝の時代に修築され、ハドリアヌス大帝によって様々な寺院などが建造されましたが、この新しい建物によって、エフェスはヘレニズムの特徴を失い、ローマ帝国の建築スタイルを持つようになりました。
キリスト教が布教される頃になると、エフェスは政治上だけでなくキリスト教上の重要性も持つようになりました。聖母マリアは晩年をエフェスで過ごしたといわれています。
しかし、貿易港としてのエフェスは衰退し、ユスティニアヌス帝の時代にはアヤソルクの丘(セルチュク)へと市民は移住していきました。エフェソスでは6世紀に港の沈降が進み、またアラブ軍の攻撃を受けるなどし、住民はアヤソルクの丘へと移住し、都市は廃墟となりました。

さて、エフェス遺跡ですが、南入口を入り、右手前方を見ると存在感たっぷりの遺構が目に飛び込んできましたが、それはヴァリウスの浴場跡でした。2世紀に造られたもので、床下暖房の典型的なローマ風呂の形を残しています。ここには冷水浴場、温水浴場、休憩室、読書室、浴場サロンもあったそうです。
(ヴァリウスの浴場跡)
ヴァリウスの浴場跡

一方、左を見ると、無数に並び立つバシリカ(礼拝所)跡の白い大理石の円柱の列が眩しいばかりです。
(バシリカ)
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バシリカの背後にはオデオンがあります。それほど大きなものではありませんが、良好に残っています。オデオン(音楽堂)の収容人数は1400人で、劇場のような建物に屋根が付いていたそうです。全市民が参加する議会を大劇場で行ったのに対し、こちらでは300人の代表者会議やコンサートの際に利用されたとのことです。
(オデオン)
DSC07425

DSC07431

オデオンの隣にはプリタニオン(市庁舎)の円柱や礎石等々があります。その遺構の数々を見ると、豪華な公会堂であったのがよく分かります。 また、背後の山の上を見上げると城塞の石垣も見えます。

(プリタニオン)
プリタニオン

プリタニオン2

「クレテス通り」を挟んで反対側には「ドミティアヌスの神殿」と「ポリオの泉」があります。
ドミティアヌスの神殿は、皇帝ドミティアヌスを祀る50m×100mの神殿が建てられていましたが、家臣たちの手によって皇帝が殺された後に神殿は取り壊されました。2階建てで、1階には倉庫と店が、2階には神殿が設けてあったそうです。
ポリオの泉は、紀元後1世紀にオフィリウス・プロクルスがC.セクスティリウスに捧げる為に造ったもので、泉の全面は大理石で覆われた像で装飾されていたようです。
(ドミティアヌス神殿とポリオの泉)
右奥がドミティアヌス神殿で左手前のアーチのところがポリオの泉です。
 ドミティアヌス神殿とポリオの泉

さらに「ドミティアヌス広場」の手前には「勝利の女神ニケ」が置かれています。ローマ時代のもので、ドミティアヌス広場の遺跡の中から発見されたそうです。翼を持った女神ニケのレリーフで、彼女の左手には勝利の象徴である月桂樹の冠が、右手には小麦の葉があります。ここは記念写真の定番のようで、私達夫婦もここで記念写真を撮りました。
勝利の女神ニケ

そして、大理石が敷き詰められた「クレテス通り」を降りて行くと、「メミウス記念碑」、「ヘラクレスの門」、「トラヤヌスの泉」、「スロープの家(富裕階層の住宅地)」、「ハドリアヌスの神殿」、「スコラスティカの浴場」、「公衆トイレ」、「娼楼」・・・・と次々と遺構が現れます。

【クレテス通り】
クレテス通り1

クレテス通り2

(メミウス記念碑)
ドミティアヌス広場を飾っていた記念碑の一つで、1世紀に独裁者スラの孫メミウスに捧げる為に造られました。同世紀の終わりには正面に泉が付け加えられました。記念碑は様々な彫り物で装飾されています。
メミウス記念碑

(ヘラクレスの門)
クレテス通りに建つヘラクレスの彫刻を施した左右対の門です。先程見た「勝利の女神ニケ」のレリーフは、本来この門のアーチとして飾られていたものだそうです。
ヘラクレスの門

(トラヤヌスの泉)
三角ファサードが特徴的です。102~104年に皇帝トラヤヌスに捧げるために造られました。この泉は左側部分を復元したもので、台座にはオリジナル部分も残りますが、ほとんど原形を留めておらず、修復された正面から往時の姿を想像するしかないとのことです。高さ12mの二階建てで、一階は高さ7m、二階は高さ5mでした。
トラヤヌスの泉

(スロープの家のモザイク)
富裕階層の住宅地(スロープの家)の一角には、モザイクが敷かれています。小さなタイルでトルコ独特のモザイク模様となっており、一般庶民と区別して上流階級しか歩けなかったといわれています。
スロープの家のモザイク

(ハドリアヌスの神殿)
2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスに捧げられたもので、正面玄関の装飾が美しく、手前のアーチ中央には女神ティカ、奥の門には両手を広げたメドゥーサが彫られています。
ハドリアヌス神殿

(公衆トイレ)
公衆トイレ

(娼婦宿) 
4世紀のものです。宿にやって来た客は、まず手と足を洗ってから廊下を通り大広間に入っていったそうです。
娼婦宿

娼婦宿の背後の山の上には軍事施設・城塞の石垣が見えます。写真手前下の大理石通りを挟んで手前には「セルシウス図書館」がありますが、そこから地下道で繋がっていたそうです(笑)。
娼婦宿を

クレテス通りの突き当り・真正面には「セルシウス図書館」のファサードがかなり良好に残っています。

(セルシウス「ケルスス」図書館とマテウスとミトリアダテスの門)
図書館のファザードは非常に良好に残っています。アジア州の総督だったセルシウス(ケルスス)の死後の135年、息子のC.ユリウスが父の墓室の所に記念に築き上げました。墓所は館の裏手にあります。
マテウスとミトリアダテスの門は、マゼウスとミトリダテスは皇帝の奴隷であったが解放され、経済的に成功後、皇帝一族に寄進されたものです。
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(セルシウス図書館の女性像)
図書館の正面には知恵、運命、学問、美徳をそれぞれ象徴する4つの女性像がある、オリジナルはウィーンの博物館にあり、ここにあるのはコピーとのことです。
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図書館の横の「マテウスとミトリアデタスの門」を潜ったところは「アゴラ(市場)跡」です。
(アゴラ跡)
アゴラ

図書館の前を右に曲がった通りが「大理石通り」ですが、その傍らに、娼婦宿の広告だと言われる石に彫られた足跡の道しるべがあります。
(古代の娼婦宿の広告?)
大理石通りに娼婦宿の「足跡の道しるべ」が刻まれています。大劇場へ延びる道の中間にあり、広告の内容と足跡の方向はそのまま娼婦宿を示しています。左下の女性像が「女の子が待っています」。その左のお金が「お金を持っておいで」。上のハートが心を込めてサービス」。そして、足にはいろいろな説があるようで、「足がこの足型より小さい人は、まだまだ入れないよ」との説もあるとのことです(苦笑)。
売春宿の広告


そして、いよいよ「大劇場」が現れます。実に良好に残っており、今でも使われているとのことです。
(大劇場内にて)
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大劇場の正面から「ハーバー通り(港通り)」がかつての海に向かって伸びています。
(ハーバー通り)

ハーバー通り

ハーバー通り(港通り)から眺める、ピオン山を背後に従えた「大劇場」の姿が素晴らしい。
(大劇場を背景にハーバー通りにて)
DSC07502

DSC07505

(体育館跡)
劇場体育館

(体育館跡越しに大劇場を)
DSC07506

 
他にも「聖母マリアの教会」等々、まだまだ見所はいっぱいあるようですが、これで時間制限一杯。それでも、実に見応えのある遺跡で、人によっては、規模はともかく、フォロ・ロマ-ノよりも素晴らしいと言う人もいました。

エフェス見学のあとは、定番の買物です。今日は「革製品」ですが、私も家内も、ついついジャケットを一着づつ買ってしまいました。でも、結構気に入ってます。 
P_20170912_175807

 

さて、今夜はパムッカレ泊りです。
パムッカレといえば「ローマ時代の遺跡が沈む露天風呂」が有名ですが、そこには入れませんでした(;>_<;)。
いつか、一度は入りたいものですね。

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